twitterを始めて約2週間経つ。いまだ試行運用の状態である。
世間では、「twitterはfacebook以来、あるいは以上の発明」といった報道がおびただしい。
もういい加減にしてくれよ、というほどの騒がれようだ。
加えて、周囲にもtwitterでつぶやく人が急増している、らしい(正確にはわからないのだが)。
さらに決定的なのは、自分の会社のメディア・マーケティングとしてtwitterを積極的に推進していこうという流れになったこと。(←特に機関決定したわけでもなんでもない。でも、そうなっている)
「キャズム理論」的表現を用いれば、私自身はつねに「アーリーマジョリティ」的属性で行動してきた。
「パイオニア」や「アーリーアダプタ」にはなり切れない。
だが、世の大勢が決する前には、行動をしたくなるタチである。
そういうわけで、つねにミーハーであり続けてきた。
これから流行るもの、旬なものを判定するのに、自分自身が格好のリトマス紙の役割を果たしている。
その意味で、私がtwitterを利用したくなったというのは、要するにtwitterのキャズム越えが証明されたも同然だろう。
さて、そのtwitterをどう使っていくのか。
使い始めて2週間近くになったが、いまだにそれが定まらない。
とりあえず、自身のための備忘録として、読書中、気になったフレーズを書き留めたりする。
時々は、脳内で「!」となったことを書いたりもする。
また、iPhoneのカメラを使って画像メモを撮るということにも用いる。
しかし、
「それが、何か?」
ということである。
そんなコンテンツは、他人に観せないでもいいことだらけだ。
自分のために限定するなら、Evernoteで充分すぎるぐらい機能している。
すると、やはりマイクロ・ブログなのか?
マイクロ・ブログとするなら、テーマ(表題)がないのが気になる(でも、これが表現の敷居を下げていることはよくわかる)。
140字の制限が、読書メモにしても不足な時がある。
さらに、タイムライン(時系列ということか)以外のビュー(例えば、主題別に整理する見方など)が提供されていないも等しいので、まとまった思考を連続的に書き綴っていくのに向いていない。タグづけもできない。
そういうわけで、自己(思考)表現ツールとしては不適確な気がしている。
他の視点ではどうか。
ゆるゆるなソーシャルネットワーキングだと見よう。
“○×についての”という主題性(指向性)は皆無だが、確かにソーシャルな関係をづくりをしてくれるプラットフォームだとわかる。
ブログ以上にソーシャルネットワーキング的である点は、“フォロー”という一段積極的な関係を、発信者に対して表明できることだ。
とは言え、それでもフォロー側にはコメントしたりする必要はない。
読み捨て可。
フォローが“義務”という重荷である要素が限りなく希薄なのだ。
ほとんどRSS購読のようなものだが、フォローしているという関係だけが視覚化されている。
発信者がつぶやき続けるモチベーションとしてはこれで充分に機能するのだろう。
もうひとつ。私には、まだよくわかっていない点がある。
どうして、twitterは伝播するのか?
私はだれにもことわりなくtwitterを始めた。
自分の感覚に合わなければすぐにでも止める気持ちもあり(いまも、そんな気分ではある)、ひっそりと始めて、親しい(社内の同僚ではなく)外部の人物を一人だけ、フォローしてみた。
あら不思議。3日ほどでフォローが50人を超えた。
その半分ぐらいは、同僚のようだ。
だが、残り半分は、外部の人々である。
そのまた半分は、たぶん、未知の人々のようである。
この伝播力は、twitter初心者の私には摩訶不思議。謎である。
こじつけて的に理解するなら、こうである。
フォローをした人間が“ハブ”となり、ソーシャルな関係が拡大(拡散)するようだ。
実際、最初にフォローした人物は、業界ではなかなか知名度があり、また、関係作りに意識的なヒトなのだ。
SNSのようなケースでは、この関係拡散(購読の連鎖)に心理的ブレーキ(ためらい)もかかりやすいのだが、twitterの場合はそのためらいがほとんどない。
言い換えれば、気軽にフォローを選択しやすい。
もう一つ。検索がフォローを生む。
どう見ても私にとって未知の人々は、どこからやってくるのか。
どうやら私のつぶやき中にあるキーワード(例えば、「小林弘人」氏など)に反応してのようだ。
“趣味”や“主題”という、やや大きめのテコが作用して関係が形成されていくSNSやブログ購読に対し、twitterのそれは、それより小さいキーワードであることに間違いない。
これは検索機能と相性が良い。
このキーワードが作用する側面では、twitterがマイクロ・ブログ的機能を果たしているとも言える。
最後に、twitterの最もtwitterらしい面で言えば、人物にフォーカスしていることだろう。
“つぶやき”は、やはり固有の人物のつぶやきだからこそ意味が生じる。
その人がいま何を考えている、どう行動しているかにどこか触れてみたいという気持ちが、そうさせるのだろうか。
改まった表現に触れるより、その人のいま・ここが重要なのかもしれない。
とまあ、自分がいましていることはどんな意味があるのか、脳内に浮かべながら、しばらくはつぶやきを続けることになりそうである。