梅田望夫と茂木健一郎の対談企画『フューチャリスト宣言』を読んだ。
いろいろ関心を呼ぶ議論が盛られているのだが、一点にだけ絞り込み取り上げておきたい。
私の関心を呼んだ部分は、クリス・アンダーソンが“ロングテール理論”に引き続いて提唱する新たな理論・トレンドThe Economics of Abundanceに言及した箇所だ。
茂木 梅田さんは最近「The Economics of Abundance」についてブログで書かれていたけれど(http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20061026/p1)、知的な資源が「希少」でなく、「豊富にある」ようになるということは社会に重大な変化をもたらすと思う。そもそも社会の中で僕が憎むさまざまな「障壁」や「差別」の根源には、「リソース(資源)が限られている」ということがあると気づきました。
梅田
「ロングテール」の提唱者、クリス・アンダーソンが、ロングテールの次の概念として提示しようとしている考えです。「過剰の経済学」とでも訳せばいいの
か、情報の世界を中心に、資源が希少だという前提ではなくて、資源が過剰にあるという前提で世界がどうなるか考えよう、という発想ですね。
……中略……
梅田 さっきの「二つの別世界」の話に戻りますが、リアルの良さはリアルの良さとして絶対に残ります。そこでお金がまわるんですよ。リアルは不自由だから。
茂木 ある場所にいることの経済性とでも表現するべきでしょうか。たとえば、景色の良い夕暮れの丘に行って友だちと散歩していることでしか得られないもの。そのような体験はリアリティを持ち続けるし、お金も生み出し続ける。一方、ネットのほうは……。
梅田
無尽蔵な世界だから、そっちは違う別の法則で動く。だからその二つを行き来する。大学的なことをネットの上でやるにしても、それをやる人は引退した後の人
であるとか。(中略)一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの
世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。
(同書 第3章「フューチャリスト同盟だ!」より)
私が、これからあと何年生きるかわからないが、その残り人生でかなりの重さ(影響力)をもたらすだろう命題として、この議論には関心を持っている。
その期待値からして、ここでの問答はずい分と期待はずれなものに終わっている。
梅田が命名する「過剰の経済学」は、私や私以前の“旧世代”人間が一様に有する「もったいない(と感じる)経済学」が形成する通俗道徳を踏み越えていく兆候を指し示している。
“通俗道徳”とは、人間の先験的な道徳に根ざしていない、過渡的に過ぎない道徳と受け止めてくれればよい。
「もったいない」と感ずる部分の根源には、資源は有限という経済学がある。
だが、その資源は、実は有限でなかったとしたら……。
そうなれば、「もったいない」という感情の発露を美徳とする道徳は瓦解することだろう。
梅田・茂木両氏は、リアルの世界と「あちら側」の世界では異なること。リアルの世界では「永久に」資源の有限性が働く、だから、金(=経済)がまわるという二元論の整理をしている。
残念なことにこの重要な命題を足早に通り過ぎてしまう。だが、ここではもっとじっくり物事を考えた方がよい。
人間は有史以来、その経済的な必要に応じてさまざまな道徳や倫理(、その先の法律まで)を作り上げてきている。
したがって、現代の法律や道徳から、その根源に向かって遡行していけば行くほど、「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」といった、先験的な命題へと回帰していくことになる。
先験的とは、「説明不要な命題」と解釈すればわかりやすい。
なぜ殺してはいけないのか、なぜ盗んではいけないのか。それを説明しなくてよい命題が、人間の究極的な道徳・倫理の根拠をなす。
薄々と感じることだが、現代はこのような各種の命題が、先験的か、通俗的かの分岐点に次々さしかかり揺らぐ時代なのだと思う。
当然ながら、「もったいない」という道徳も、「いくらでもある資源を存分に使ってどこが悪い?」との反論にさらされている。
「もったいない」に根ざした心理や行動が、若い世代にやすやすと踏み越えられたとして、私たちにはこれを先験的な道徳違反であるとは咎めることができない。咎めることが無意味であるような世界の足音を聞いているのだ。
引用にあるように、この点、筆者らは「永久に」リアルの世界ではそのようなことが生じないと言って歩み去る。
残念ながら、これはそんな硬直的二元論で片付く話題ではないだろう。
もっと射程の長く影響をもたらす事件を、私たちは目撃しているのだと思う。