ほぼ同時期に、佐々木俊尚『キュレーションの時代——「つながり」の情報革命が始まる』と、中村 滋『スマートメディア 新聞・テレビ・雑誌の次のかたちを考える』を読んだ。
本稿は、この2冊を同時期に読むという体験を自らに問い直す粗雑なメモである。
当然のことながら、両著作のアプローチは、同じではない。いや、大きく異なると評すべきだ。
『キュレーション…』のそれが、来るべき社会像を視野に置いて、それをもたらす“大統合”の可能性を多彩な題材を駆使しながら論じる。それに対し、『スマートメディア』では、過去に向かっての分析を“マスメディアの衰退”から始め、“なぜ雑誌は売れなくなったか”を問い、将来に向けては“来るべきメディア”の実装イメージを提示するのである。
言い換えれば、前者ではメディアを問いながらも、メディアを超えて社会全体にわたる転換を構想しているのに対し、後者では、メディアの背景にある消費への視点から始めて、新たなメディア像の構想へと帰還していくのである。
さて、ここで自分自身への最初の問いが発生する。
このようにアプローチを異にする両書を、だが同時に読むことになるとは、それはいったいなにを意味するのか? と。まずは佐々木に語ってもらおう。
世界の複雑さは無限で、その無限である複雑をすべて自分の世界に取り込むことはできません。ノイズの海と私たちが直接向き合うことは、とうてい不可能なのです。だから動物や人間は、さまざまな情報の障壁をもうけて、その障壁の内側に自分だけのルールを保っている。(『キュレーションの時代』)
情報爆発が進み、膨大な情報が私たちのまわりをアンビエントに取り囲むようになってきている中で、情報そのものと同じぐらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まってきている。(同上)
この時代に生きる私たちが共有する大切な認識は、“情報の過剰”という事態である。
消費可能な事物が潤沢である時代は、基本的に幸福な時代と呼べるはずであった。
だが、佐々木がこの過剰に否定的であるのは、二つの意味においてである。
ひとつは、情報の発信者の背景に文脈上の多様性が欠けること。言い換えれば物語の貧困という危機(「記号消費」)。
もうひとつは、上記引用もあるように、過剰な情報をフィルタ(選別、濾過)する防御機制上の危機である。
このように、“情報の過剰”は危機として立ち現れ、その克服が問われるようになる。
私たちが立っている地平はそのような場所である。そしてこの地平こそ、両著作がほぼ同時期に世に出ることとなる共通背景を成していると、私には思える。
ところで、メディアにおいてこの危機が立ち現れる経緯を、中村は統計資料等を援用しながら跡づけてみせる。
(雑誌売上とデパート売上の衰退曲線が同期していることを示した上で)雑誌が売れなくなった時期は、デパートが売上を大幅に落としていった時期にほぼ重なっています。いったい、なにが共通しているのか?……「何でも揃っているようでいて、じつは本当に欲しいものがない」(『スマートメディア』)
なぜなのでしょうか?
「多様化と細分化」
これが、その問いを理解するためのキーワードだと思います。(同上)「人々の多様化と細分化」こそが、デパートやマスメディアを衰退させた最大の要因であり、したがって、新しいメディアの条件を考えるうえで、もっとも重要なキーワードなのではないか。 (同上)
中村の指摘が優れているのは、メディア衰退の理由として“インターネット元凶説”を退けていることである。
つまり、“インターネットが雑誌を殺した”のではなく、供給の潤沢さ(と同時に物語の貧困化)が進み、それがまさに苦痛へと転化していることに対して、情報発信者の視点転換が進まなかったこと。
これがデパートという形式や“雑”誌というメディア形式が衰退した原因の第一、と整理するのである。
では、「多様化と細分化」から引き起こされた、その後はどのような現象がもたらされるか?
危機に人々はどう対処しようとするのかということである。
「ビオトープ」という魅惑的な概念を援用して佐々木が素描するものを確認してみよう。
ビオトープというのは……ギリシャ語でビオ(bio)は生命、トープ(tope)は場所を意味し、この二つを合わせて「有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」というように定義されています。 (『キュレーションの時代』)
いまの私たちの情報社会も、このような小さなビオトープが無数に集まって生態系をかたちづくり、それらが連結を繰り返しながら全体を構成させているのです。 (同上)
「洋楽を好きな人」「Jポップを好きな人」「クラシックを好きな人」「ジャズを好きな人」はそれぞれビオトープ化し、言い換えればオタク化してさまざまな圏域を作り出している。そういう時代がやってきたのです。 (同上)
バブル期を経た消費の焼け野原。新興国の消費者に見るぎらぎらと旺盛な消費意欲が衰退し、メガヒットが生まれなくなってしまった時代。
そんな乱雑さと興奮が静まりかえった後の海原に、実は多様で微細なビオトープが次々と誕生している。そこでは小さくとも豊かな生態系が営まれている……。
従来の大量消費社会の文脈からすれば、負もしくはゼロと見なされる状況の海面下に、実は豊かな生の交流を見ようとする佐々木の視点は、挑発的であり魅力的でもある。
大いなる供給者の物語から解き放たれたビオトープにあって、どのような生態系が営まれているのだろうか。
それが第二の問いとなる。
さらに佐々木が描く世界を追ってみる。
すべてがフラットになるインターネットの世界では、「価値観や興味を共有」している人たち、すなわちコンテキストを共有している人たちの間では、たがいが共鳴によってつながり、そこにエンゲージメントが生み出されるのです。 (『キュレーションの時代』)
グローバルなプラットフォームの上で、コンテンツやキュレーター、それに影響を受けるフォロワーなどが無数の小規模モジュールとなって存在する。そういう生態系の誕生。 (同上)
少し補足しよう。
殺到する過剰な情報に対して、独自のコンテキストを付与、あるいはフィルタすることで、小さな生態系内の住人どうしに適した情報セットを再配布する役割を担った存在、「キュレーター」が自生的に立ち上がってくるということだ。
重要なのは、そこには情報受発信者間に徹底した対称性が貫かれており、「ある分野ではインフルエンサーで、ある分野ではインフルエンサーから影響を受けるフォロワーになっています」(同書より)という関係が成立することである。そこにこそ「つながり」、言い換えればソーシャルメディアが果たす革命的な役割が、著者によって含意されている点である。
粗雑に視点を追加をするなら、ちょうどイヴァン・イリイチが提唱した「バナキュラー」なものの奪回もまた、『キュレーション…』の著者は遠望していると言えそうだ。
ところで、消費の現場にあって消費者が「No」と言うことを目撃することは困難である。
消費者は「No」を、消費からの遠ざかりにおいてこそ表明するのだから。
中村は、著作中で興味深い調査の経緯を表明している。
それは、読者がケータイでどのようにしてマンガを読んでいるかについてである。
意外だったのは、マンガを読む「時間」と「場所」についての回答でした。……いざふたをあけてみると、時間については「寝る前」、場所については「ベッドの上」がそれぞれトップでした。寝る前にベッドで読むのなら、なにもケータイである必要はないはずです。それこそ単行本を読めばいい…… (『スマートメディア』)
この調査によって、読者がケータイ・コミックに求めているのは、いつでもどこでも読める手軽さではなく、
「好きなときに好きな作品だけを、少し読みたい」
ということだとわかってきました。 (同上)
調査の詳細とは別に、ここで中村が導く次の認識は重要である。
ひと言でいえば、ユーザーが求めているのは、自分にピッタリあったものを選べるという選択権です。決して、ウェブで読むか紙で読むかの選択権ではありません。ユーザーを主人公にした情報そのものの選択権の有無が問われているのです。(同上)
「ユーザーを主人公にした情報」の欠如は、私たちが述べてきた「情報の過剰、物語の貧困」に相応している。
中村にとり、来るべきメディア「スマートメディア」の実装イメージは、ここから先あと一歩の距離にある。
メディア進化の行きつく先は、ユーザー・オリエンテッドのまったく新しいメディア、すなわち、「クラウド」「フロー」「1to1」をすべてかね備えたスマートメディアの誕生と、その展開だと思います。 (同上)
改めて述べるなら、“来るべきメディア”の実装について、両著の視点には隔たりがある。
逃れ得ない底流を大きく共有しつつも、である。
情報を発信するものと、受信するもの。これを架橋するものがメディアであると、仮に定義するなら、そのメディアに第三の人格を定義をしようとするのが 『キュレーション…』の中核的な概念である。
キュレーターは、過剰な情報を濾過し、微少な情報にアンテナを張りめぐらすことで、流通する物語の流動化の役割を担わされている。
『スマートメディア』の論に、キュレーターに相当する存在概念はない。
代わって情報受発信両者間の対称性を強めていくメディア(形式)とシステムに対して、楽天的なビジョンが表明されているのである。
両著が近くて遠い場所に立っていると感じさせる所以である。
(未定稿)