ダニエル・T・ドルービン『腐ったバナナを捨てる法』は、「ダメなもの」を思い切って切り捨てることこそ、人生を劇的に変えると熱く鼓舞するものだ。
訳者(小川敏子)が言う「力強い激励の言葉のシャワー」とは、本書のそのような性格を的確に言い表している。
さて、偶然にせよ示唆されたにせよ、本書を手にする読者の多くは「腐ったバナナ」の語に強烈なインパクトを受けるに違いない。
初めてそのタイトルに触れた瞬間、私たちはそのコンセプトをすでに理解していると思い込んでしまうほどだ。
ではなぜ、なお私たちは「バナナを捨てる」ことを直感的に理解すると同時に、行動に踏み出せずにいたのだろうか?
本書の役割は、まさにだれもが直感的に理解する「腐ったバナナ」の存在を明らかにするともに、それを手放すにいたる思考プロセスを丹念に説くことだ。
著者は「バナナ」について、こう述べる。
人は何か、あるいは誰かをしっかりとつかんで放すまいとしがちだ。この人を、これをなくしたら生きていけないと思いこむ。だから手放すまいとする。
バナナは自らを縛るものである。と同時に居心地の良さを生み出すものでもある。従って、バナナは束縛であり障害でもありながら、片や失うことのおそれを生み出しもすると言うのだ。多くの人は、気持ちのうえでは「現在の地点からもっと進みたい」と望む。しかし、実際にはいまの場所、いまの自分の状態から動こうとしない。自分が持っているバナナを、いまのままの状態を、自分の習慣を、居心地のよさを、過去を手放そうとしないのだ。
では、「居心地」と「おそれ」に抗して、どうして決別しなければいけないのか?
将来に向けて希求するものがあればこそ、「決別」は不可欠と著者は主張する。成功とは結局、いまいる場所から望む場所に行けることである。
過去と決別したい、いままでいた場所にはもういたくない、よりよい未来をつくりたい、と望めば、考え方と行動の仕方を変えなくてはならない。腐ったバナナから解放されるには、新しい考えと行動に切り替える必要がある。
もうひとつ。著者が教えてくれる重要な事実がある。それは居心地の良さと決別へのおそれを生むものの別名は、「依存」だということ。
最後に改めて本書の“不思議さ”に立ち返ろう。依存について、うまい定義を紹介しよう。
「ほんとうは望んでいないものを、際限なく求めてしまう状態」
私たちは誰もが「腐ったバナナ」を持っている。
本書のタイトルに触れるだけで、驚くほど明瞭な共鳴と共感が自らの内側に沸き立ってくる。
著者の示唆に従うなら、それだけでも、望む場所に行くことを希求していることの証となるだろう。
人生を変えるためのハウツーではなく、人生を変える意欲をかき立てる激励の書である。
※ 本稿は、 ITmedia エグゼクティブ 「みんなのミニ書評」コミュニティーに投稿したものに加筆し、再投稿したもの。