期せずして同時期に、メディア稼業の今後に向けて重要な視点を提供する書物を読むことになった。
湯川鶴章『次世代マーケティングプラットフォーム』と藤原 治『ネット時代 10年後、新聞とテレビはこうなる』。この2冊である。
ふたつの書物を見比べると、興味深い特色が重なりあって浮かび上がる。それは、“メディア”をめぐる共通の将来イメージである。
前者は、その帯にも大きく掲げられているように、「広告マーケットプレース」「デジタルサイネージ」「ウェブ解析とCRM」など、従来のメディアと広告の蜜月、すなわちメディアビジネスを終焉させるかもしれないテクノロジーの進展、その先端を探る。
「広告とマスメディアの地位を奪うもの」という刺激的な副題が付されているが、「奪うもの」の当体を、著者は「マーケティングプラットフォーム」と呼ぶ。
後者は、2010年代に起きると著者が占う「ネットとメディア」の本格的な融合を扱う。この融合により登場するものを、著者は「eプラットフォーム」と呼ぶのだ。
新聞記者が「マーケティング」を語り、「広告の終焉」を述べる。片や長く大手広告代理店を勤め上げた著者が、「新聞とテレビがのみ込まれる」メディアの大変革期を占う。
そして、両者は軌を一にして、その変革を引き起こす、あるいは変革によって生み出されるモンスターを「プラットフォーム」であると断じるのである。興味深い共通点と言わざるを得ない。
湯川が論じるのは、技術変革こそが「広告の終焉」を促すという視点である。
上にも挙げたような、インターネットを巡って急進展するさまざまな技術革新が、「『広く告知する』を意味する20世紀型の広告はいずれ消滅する」という確信をもたらす。
広告から販売まで、売り手と買い手が一つの配線でつながっていた時代から、あらゆるメディア・販売チャンネルを通じて複雑につながる時代へ——。これを(引用者注=Microsoftのビル・)ゲイツ氏は「今、経済のリワイアリング(配線組み換え)が行われている」と表現している。
配線組み換えの作業は、すでにデジタル化されオンライン化されている領域から始まり、徐々に経済全体に広がっていくだろう。今すぐにでも配線が可能なのは、オンライン広告の領域である。だからこそ、IT大手がこぞってオンライン広告の領域に参入しようとしているのだ。 (『次世代マーケティングプラットフォーム』より)
なるほど。ではどこが「プラットフォーム」か?
著者は、インターネット時代のマーケティング手法を表す概念として、「360度マーケティング」に触れながら次のように述べる。
テレビなどの従来型メディアだけではなく、自社サイトやブログなどのパソコン向けウェブサイト、携帯電話、デジタルサイネージなど、あらゆる機器、メディアを通じて、消費者に接するべきだという考え方。 (同上)
そして、これが重要な点なのだが、リワイアリングされてあらゆる点から消費者に接するマーケティング(技術)に、単独の覇者は存在しないと言う。
Googleでさえ、単独では「360度」を形成し得ない。
単独の覇者に代わりそこに存在するのは、多数の接点や視点を生み出す(テクノロジーの)プレーヤーたちであり、その連鎖である。
この連鎖を生み出すものこそ、(インター)ネットワークである。
インターネットは、新たなオンライン・メディアを生み出す基盤であったが、今や新たなマーケティングを生み出す基盤、すなわちプラットフォームだというのである。
さて、次に「eプラットフォーム」の概念に触れてみよう。藤原は次のように、「10年後」の近未来イメージを語る。
いささか長い引用だが、容赦してほしい。
……新聞を新聞受けまで取りに行った。そんな習慣がなくなって久しい。その朝も、居間の100インチのテレビのスイッチを入れる。
画面に現れたeプラットフォームのインデックスをクリックし、昔から取っている朝日新聞の見出しを映し出す。一面から順次スクロールしていく。この動作までの情報取得は、誰に対しても無料である。しかし、筆者は朝日新聞は年契約しているから、有料とされるコンテンツ、つまり記事に関してもフリーで取得できる。その朝は、日本経済の動向、その年のアメリカ大統領選挙の行方に関する記事を取り、設置されている印刷機でそれらを紙にプリントアウトした。
……以前は、チャンネルをカチャカチャ回しながら、見たい番組を見つけようとしたが、今ではキーワード、例えば、「首相の新年挨拶」とインプットすると、どの局で放送しているのかがすぐにわかる。また、典型的なアナログ人間である筆者でも、ドラマを見ながら平気で主人公の着ているジャケットをクリックし、eコマースで購入している。
……つけっぱなしのテレビでeプラットフォームの画面をクリックした。母の顔が映る。テレビ電話機能をeプラットフォームが果たす。わが家には数年前から電話機がない。 (『ネット時代 10年後、新聞とテレビはこうなる』より)
著者が、eプラットフォーム誕生のターニングポイントとして挙げるのは、以下の3つである。
- 2011年に完成するテレビ地上波のデジタル化——デジタル化でインターネットと同様の双方向性が可能となる
- インターネットのブロードバンド化——広帯域ネットワークでは、テレビ動画との同質化が生じる
- HDD内蔵の蓄積型テレビの普及——フローからストックの番組視聴で、テレビとPCの同質化が進む
ここでも、では何がプラットフォームなのか? という問いを発することになる。
藤原は、「メディア」と「コンテンツ」(もしくは、「コンテンツ・プロバイダー」)とを峻別する。
メディアとは「媒体」である。媒体は、この場合、新聞紙や地上波であり、インターネットである。つまり、コミュニケーションの両極を行き交うコンテンツを伝達する媒介を指す。新聞とは、印刷された紙というメディアに載ったコンテンツの総体である。
eプラットフォームは、このメディア部分に相当し、かつ、従来からのメディアの分別を無意味化するモンスターなのだ。
eプラットフォームが完成すると、コミュニケーションにおける三大要素のコミュニケーターとコミュニケーティ、およびメディアのうち、メディアに関する差別化がなくなり、「すみ分け論」が雲散霧消することになる。そうするとどういうことが起こるか。
これまでメディアの経営主体とされていた新聞社やテレビ局は、現在持っているコミュニケーターの性格は相変わらず保持しつつ、メディアの性格をeプラットフォームに譲ることになる。なぜなら、新聞もテレビも、このeプラットフォームにのみ込まれていくからである。
それでは、新聞社における「紙」はなくなるのか。そんなことはない。紙は相変わらず残る。しかし、今まで紙で見ていた(あるいは紙だけでしか見られなかった)内容を、紙で見ないことも可能となる。eプラットフォームの画面で直接、見ることが可能になるからである。 (同上)
すなわち、eプラットフォームの「プラットフォーム」とは、その多くを物理的特性上分別されてきた“メディア”の違いをのみ込み、メディアという形式に守られてきた各コンテンツを、同一の基盤の上に解き放つ。
むろん、この基盤こそが、eプラットフォームというわけである。
四月は残酷な季節だ。(T. S. エリオット「荒地」)
冬は人を温かくかくまってくれたのに、4月は「リラの花を死んだ土から生み出し追憶に欲情をかきまぜたり春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ」。
インターネットが引き起こす、メディアビジネスの大変革は、これから姿を私たちの前に表すというべきだろう。