小島寛之『容疑者ケインズ』:
■ 第1章 公共事業はなぜ効かないのか
不況とはなんだろうか。端的にいえば、経済パフォーマンスの低下である。つまり生産活動の水準が落ち込んでしまうことなのである。
では、そのような経済パフォーマンスの低下がどうして起きるのだろうか。原因はおおおまかにいって二種類ある、と経済学では考える。一つは「完全均衡」における低下で、もう一つは「不完全均衡」での低下である。この二種類の違いは、前者が「需要と供給が釣り合ったままでの低下」であるのに対し、後者は「需要と供給が乖離した形での低下」である、ということだ。……完全均衡にある限り、人々は自分の能力と労力をはかりにかけて、最も都合のよい労働量を決めているし、設備・機械などのいかなる資本も利用可能な限りにおいて最も効率的に稼働しているから、それを変えようとすると誰かが損をしたり、かえって効率性を悪化させたりする。専門的に説明すると、需要曲線も供給曲線も、市場参加者の利益を最大化するような状態を表現しているからだ。要するに、そんなときには、どうにもならないってことなのだ。
でも、後者の不完全均衡の下で経済が落ち込んでいる場合は、そうではない。不完全均衡とは、需要と供給が釣り合っていない状態で生じる経済パフォーマンスの低下である。とりわけ、需要が供給を下回ってしまい、供給が余ってしまった状態をいう。
「供給が余ってしまっている」ということの意味は、商品の売れ行きが悪くなり、それにともなって、労働者が解雇されたり、オフィスの空室が多くなったり、稼働されない機械が目に付くようになることだ。……確かに、生産した商品は、時に即日完売したり時に売れ残ったりする。このように「瞬間的には」需要と供給の乖離が生じるのが一般的だ。でも、商売に固有の時間単位で見るなら、こういう乖離はない、と考えられる。 なぜなら、需要と供給がずれた場合、価格が変化することを通じて、需要と供給がにじり寄っていくからだ。……だから、需要が供給を下回ることが無視できない期間続くことなんかありえない、そう考えるのが伝統的な経済学(新古典派経済学と呼ばれている)の立場なのだ。そして、このような価格の伸縮を通じて実現される釣り合い状態こそが「完全均衡」なのである。
このように考えると、需要が供給を下回り続ける「不完全均衡」、それが原因で起きる「不況」や「恐慌」とはいったい何なのか、そんなものが現実にあるのか、そういう疑問がわいてくる。新古典派経済学では、価格メカニズムが働いて需要と供給の乖離はただちに解消されると考える。だからこの学派は、このような状態を、均衡に戻るまでの瞬間的な状態でしかないと考えるので、わざわざ問題とはしない。
……にもかかわらず、学問の世界では、不完全均衡の存在の可能性、そしてそのメカニズムを、きちんと「論理的」に「数理的」に示した成果はたぶん一つしかない。それが、今や古典となっているケインズの『一般理論』なのである。……ここに、ケインズの経済学と新古典派経済学との大きな考え方の違いが現れる。伝統的な経済学では、価格変化による売買のすみやかな調整が自然に起こるとされる。だから、労働者が望むだけ労働を供給し、機械・設備が可能なだけ稼働して、フルに財を生産しても、それが完売されるだけの水準に価格が決まり、無駄な余りは生じない、と考えている。
他方、ケインズは、価格はそんなにすみやかに変化する性格のものではなく、財の売れ残りは次期の生産の手控えによって完売が促進されるので、有効需要を超えた分の財を生み出す労働力や機械・設備は最終的には使用されない立場に追い込まれることになる。そう考えているのである。国全体の集計量として見るとき、企業部門の投資総額と家計部門の貯蓄総額が一致してしまうことを「投資と貯蓄の均等原理」と呼び、マクロ経済学の「いろは」にあたる原理である。設備投資は、起業の経営者が将来の市場動向を見据えて計画するものであり、貯蓄は家計が長期的生活設計を考えて計画するものだから、当然異なる動機で行われているはずなのに、国全体で集計すると結果的に一致してしまう。これは、多くの読者にはものすごく不思議に違いない。まさにこれこそが、「社会全体をマクロな視点で眺望することの面白さ」なのである。
……ところですべての財は、家計部門によって消費に利用されるか、企業部門によって投資に利用されるかしかありえないから、投資の総量も消費の総量も決まった今、家計の消費のためと企業の設備投資のための材の必要量は一定に決まってしまったことになる。これがケインズのいう有効需要である。企業が、これ以上の財を生産すれば、それは売れ残りを生み出すことと等しいのだ。
……このようなビジョンは、「資本主義という経済制度が、決して自律的に安定するような制度ではなく、放置しておくと不況という非効率が慢性化する可能性が高い」ことを示すものである。そして、そもそもの不況の真因を、「投資の不足」の不足に求めるのが、特徴的だといえよう。このようなケインズの考え方は、「資本主義経済は、市場における価格メカニズムを上手に利用することによって、自律的に最適にして効率的な状態を実現する」と考える新古典派経済学に真っ向から対峙するものである。
以上のようにケインズは、資本主義の制度では、供給可能な財の量を下回る需要しか存在しない、という形での不完全均衡が生じやすいので、何もしないでいると慢性的な不況に陥る、と考えた。ケインズの理論の特徴は、ただそれを指摘するだけに終わらず、対処の仕方も提案しているということである。
ケインズは、経済が不完全均衡による「供給能力の余剰」という不況に陥ってしまった場合、政府が公共事業を執り行うことによって、その不況から脱出できる、と論じている。その原理は簡単だ。つまり、「需要不足」によって、意欲も能力もあるのに失業している労働者がいて、有休している設備や機械があるなら、政府がそれらの生み出すことの可能な生産物の使い手になればいい、ということなのである。政府が公共事業を行って、失業者を雇用し、有休している設備・機械を使って、生産を追加させるのである。これを専門のことばで「財政政策」という。……
前に解説した通り、ケインズのいう不況の真因とは、「有効需要の不足」である。企業の投資需要と家計の消費需要の合計が、生産能力をフルに活かすだけの水準に届かない、ということだ。だから、ケインズは、政府の需要をそれらに加えることによって、「有効需要を底上げ」すればいい、そういっているわけである。もっと、乱暴ないいかたをするなら、民間部門の財に対する欲求が乏しく財布の紐が固くて不況が起きているのだから、政府が国民の財布をこじあけて、その中の金を勝手に使って、もっと生産できるはずの商品の買い手になってしまえばいい、そういうことなのである。
……おどろくべきことに、このときケインズは、公共事業の中身は問題にしていない。「穴を掘って、また埋めるような仕事でも、失業手当を払うよりずっと景気対策に有効だ」というようなことまでいっている。