あらたにすの「新聞案内人」という連載企画で、水木 楊氏が示唆的なことを述べている。
「署名記事をふやしてはどうか」がそれである。
この記事には、こんなくだりがある。
読売は今年の初め、編集局各部の部長が自らの似顔絵入りで執筆もしていたほどです。いつもは「もっと読ませる原稿を書け」とか「こんな下手な原稿は紙面 を汚す」とか言って部下を叱咤しているのですから、「手本になる原稿を」とばかりに、けっこう緊張して書いたに違いありません。
同社の広報室に問い合わせたところ、面白い返事をいただきました。「(署名記事は)読者との相互交流の起点となり、新たなネタの発掘につながることも多い」というのです。署名記事を読んだ読者が、この人に知らせたいと思って連絡してくるのでしょう。
「元日本経済新聞論説主幹」である水木氏は、記事タイトルにあるように、「署名記事を増やしてはどうか」と奨める。
署名記事は、「産地直送野菜のような安心感」が生じるのだという。非常に楽天的だ。
この記事から得られた、私の気づきは、読者にとっての親しみやすさ、きずなの深さは、私の仮説では、たぶん記事の署名性、言い換えれば、固有の人間性を欠いていては構築できにくいということである。
これからは、情報の精度は高くとも決して親しみやすさを生まないメディアは、確かに存続が困難になってくる。
たくさんの情報の中から、読者(=消費者)は、自分に取り何らかのシズル感のある情報を選択することだろう。
そこにこそ、署名記事の及ぼす影響は生ずるはずだ。
既に述べたように(「佐川明美さんの『3つのニュース記事の違いは何でしょう?』に強く共感」)、署名記事を原則デフォルト扱いとすることは、記者や寄稿者に対する社会の側からの圧力への防波堤を失うことでもある。
この点について、メディア運営企業はよくよく考え抜くことが求められる。
署名性は読者とのきずなの架け橋である。が、逆に読者からの指弾を加速もさせる。
デジタル時代のメディア運営には、この諸刃の剣から逃れることはできない。