えふしん氏のブログF's Garageでのポスト「ツイッターはステートレスなコミュニケーションでありつづけて欲しい。」は、日々類焼のテンポが増すtwitterの魅力(威力?)の根っこ部分をうまく説明してくれている。個人的には大変に得心が行くものだ。
えふしん氏は、twitterの魅力を「ステートレス」であることに見る。
…ツイッターは、参加という概念がない。突然、つぶやきを書くことができるし、突然いなくなることもできる。
@を使ったコミュニケーションは、非同期であるため、いつレスをしても良い。
参加の概念を持たないステートレスな関係性である、「つぶやきベースコミュニケーション」がツイッターの魅力だと個人的には思っている。
「ステートフル/ステートレス」は、システムアーキテクチャや、その実装スタイルなどで使われる概念だ。
氏の用法で整理するなら、ステートフルなコミュニケーションとは、その両端において明示的な参加を前提とする。スイッチが明瞭に入っている状態とも言えようか。
ステートフルが便利なのは、自分も相手も同じ場に参加していることを期待して良いため、コミュニケーションが節約できる。シンプルな言葉で濃い情報をやり取りできる。密度の濃いSNSや掲示板などでの雰囲気を想像すればいいだろう。
その逆に、ステートレスでは、明示的な参加・離脱がないので、「突然、つぶやきを書くことができるし、突然いなくなることもできる」。ステートフルであれば、振る舞いにおけるルールが明示的、もしくは潜在的に要求されるが、ステートレスではそもそもそのようなルールの共有を約束しているわけではない。逆に期待を裏切られることもあるだろう。そもそも約束を取り交わしていないのだから。
とまあ、私が補足するとなおさら難しくなりがちだが、twitterでは、発信する側も受信する側も、「ここは○×を行う場であるよ」というルールを取り交わしていない。また、twitterの各種実装もそのようなルールや正規化への収斂を想定してないようだ。
したがって、私は自らが読んで気に入った書籍のごく一部を引用し、それを蓄えておくノートおよびDB的な使い方をtwitterに望んでも、引用方法を正規化するようなアプローチは一切実装されていないため、自分ひとりの中ででも表記が揺れてしまう。
だが、そんな揺れ幅さえtwitterは否定しないのである。
もし、私のtwitter利用が自らのDB構築を目的とするなら、私のつぶやきを読む人びとの目的は、DBを参照することである。
しかし、実際はなにやら気の向いた時に言葉を交わすようなコミュニケーション・ツールとして一人歩きを始めてしまうのである。
えふしん氏のポストに戻ると、氏はこう述べる。
個人的に、このように輪に参加している状態が続く=ステートフルなコミュニケーションが、とりわけネットではあまり得意ではない。
そもそも忙しいし、そういうところに時間を使うのがあまり好みではない。
ステートフルな状態は、明示的な参加を求められる。そのうえで生じる人間関係にはルールに則った対応が求められる。
これが「あまり得意ではない」という訳だ。なるほどよく分かる。得心のいく説明である。
ところで、氏が書いているように、twitterを使い込んでいる人びとには、実装がステートレスでありながら(あるいは、だからこそ?)、よりステートフルな実装を求める動きも出てくるようだ。
私自身の短いtwitter経験で言っても、RTやらDirect Mail、あるいはもう少し微細なスイッチの活用など、やはりステートフルな文脈に出くわして鼻白むことがある。
また、自分の利用法に即してさえ、リンクや書誌情報などのフィールドをあらかじめ用意するなどより便利な利用方法を提案して欲しいなどの欲求が首をもたげることがある。これらは、要するにステートフルな実装への傾斜と言えるだろう。
えふしん氏は、twitterの良さとして、「ツイッターはステートレスなコミュニケーションでありつづけて欲しい。」と語る。
当面、これが私のtwitter理解にとっての金科玉条となることだろう。