季刊雑誌「考える人」2009年秋号に、インフォバーンの小林弘人氏のインタビューが掲載された。
ここに、オンライン・メディアのあり方を問う興味を引く発言が盛られている。
それは以下のようなくだりである。
新聞、雑誌といった紙媒体やテレビ・ラジオといった電波媒体、そしてウェブなど、個々のメディアの特性の違いは、それが依拠するインフラの設計思想に織り込まれています。即ち、コンテンツとはそれを伝播する装置の意図にあらかじめ囚われるため、同じ思想をコピーすればよいというものではありません。
テレビやラジオはマスによる体験の共有や認知の獲得に秀でています。本はコンテキストを表現するのに適したメディア。考えながら読み進めるのにもっとも適しています。一方、ウェブは徹底的にフローが高まる。また、パッケージメディアとは違い、情報が断片化します。そんな断片化情報を収集・選択して載せるアグリゲーター(情報を集めて取捨選択して提供するサービスやソフトウェア。RSSリーダーなど)の役割が一層重要視されるでしょう。本当の意味での“編集”が問われる。だから、編集長はDJ的な存在で、そのセンスにすべてがかかっているし、雑誌はその趣向を好む人たちのコミュニティのハブのはず。しかし、情報をストックかフローかで分けると、いままで新聞や雑誌が担っていたフロー、つまり速報性では、ツイッター、ブログを初めとしたウェブ・メディアが圧倒的に優位な立場にあります。逆にアグリゲーターとしての雑誌はウェブのほうが主戦場になり得るでしょうね。
十分に明瞭な視点と思えるが、あえて私のコトバ使いで整理するとこうなる。
強く関心を引くのは、2.以降の部分だ。
小林氏が使う「パッケージメディア」とは、作り手(情報の提供者)が読者の行動(読み方)を強く意図する(できる)メディアを指していると読める。
たとえばTV番組は、細かく断片的に、そして、時間横断的に楽しむことができにくい。コンテンツを細かく分離提供する構造を持たないからである。また、(始まりから終わりに向けて流れる)時間を共有する前提で制作されることが多いからとも考えられる。
雑誌は、TVやラジオ番組より物理的にも断片化しやすい。だが、編集長の姿勢がコンテンツ全体に浸透しており分離を拒む。さらに、誌面の構成も、読者の行動(読み方)を誘導すべく編集長からの提案(ナビゲーション)があるため、多くの愛読者はその提案を受け入れている。
これらが私なりの「パッケージメディア」理解である。
もちろん、小林氏が語るように、現状のオンライン・メディアでは、この対極の現象に見舞われているのに違いはない。
すなわち、メディア運営者の意図は、オンライン読者の行動が、
・お気に入りから→・メディアトップページ(INDEX)→・各記事へ→・トップページへ/他の記事へ
であることを求めながらも、
・検索エンジンから→・特定記事へ→・検索エンジンへ
となってしまいがちだということである。
オンライン・メディア運営者の内情を言えば、後者の“検索エンジン(からの)直行直帰型読者”は逓増しており、ケースによっては、メディア来訪者全体の30%を超えるような状態にもなってきている。
“直行直帰型”の読者行動は、まさにパッケージメディア的意図に対して自由である。
この場合、情報アグリゲーターが不在な状態と認識しておきたい。
と言うのは、検索エンジンが散乱する情報の大いなる仲介者ではあるが、かれには意図がないからである。
言い換えれば、検索エンジンには「情報に対する取捨選択」の意図がきわめて希薄なのである。
さて、結論を急ぎたい。
小林氏の発言に触発されて引き出されるオンライン・メディア側の命題は、2つある。
ひとつは、(読者に対して)散乱しがちな個々のコンテンツをいかにパッケージメディアとして差し出せるか。
もうひとつは、オンライン・メディアの“パッケージメディア”化が困難であるとすれば、代わりにいかに強力なアグリゲーターたり得るのか。
最初の視点、すなわち、オンライン・メディアが散乱しがちであることを止め、強力な編集長の企図に沿った読者の行動を求めることは、大いなる挑戦と見える。
なぜなら、読者の意図せぬ不規則な行動は、パッケージメディアとしての衰弱の果ての現象ではあるものの、同時に、読者がようやく獲得した“自由”の成果でもあるからだ。
次の視点。すなわち、いかに「強力なアグリゲーターであること」は、容易ではないが挑戦する意義がある。
私は、大方の認識とは異なり、Googleを筆頭とする検索エンジンはアグリゲーターたり得ていない、と考えるからである。
検索エンジンが読者に差し出すものは、大量かつ平板な情報選択肢の束となっており、その傾向はますます拍車がかかっている。ここで得られる体験は、差し出される情報の量に反比例し貧困化している。
検索エンジンに対して好意的な言い方をすれば、それは的を外していないものの、的を射抜いていないのである。
モダンで行動的なオンライン読者の重要な選択肢は、自らが“編集長”になるか、あるいは、自らの“編集長”を獲得することにかかっている。
- 特に従来のメディアは、その伝播形式(紙、電波等)の特性に依拠した発展をしてきた。その点を無視した模倣は無意味
- 電波系は、体験の創造と共有に向いている
- 書籍は、思考を伴う(言い換えれば個別的な)体験を創り出す
- Web系は、情報が散乱する・リアルタイム的に生成するので、“アグリゲーター”の役割が重要になる
- アグリゲーターのモデルは、雑誌もしくは(雑誌の)編集長である
強く関心を引くのは、2.以降の部分だ。
小林氏が使う「パッケージメディア」とは、作り手(情報の提供者)が読者の行動(読み方)を強く意図する(できる)メディアを指していると読める。
たとえばTV番組は、細かく断片的に、そして、時間横断的に楽しむことができにくい。コンテンツを細かく分離提供する構造を持たないからである。また、(始まりから終わりに向けて流れる)時間を共有する前提で制作されることが多いからとも考えられる。
雑誌は、TVやラジオ番組より物理的にも断片化しやすい。だが、編集長の姿勢がコンテンツ全体に浸透しており分離を拒む。さらに、誌面の構成も、読者の行動(読み方)を誘導すべく編集長からの提案(ナビゲーション)があるため、多くの愛読者はその提案を受け入れている。
これらが私なりの「パッケージメディア」理解である。
もちろん、小林氏が語るように、現状のオンライン・メディアでは、この対極の現象に見舞われているのに違いはない。
すなわち、メディア運営者の意図は、オンライン読者の行動が、
・お気に入りから→・メディアトップページ(INDEX)→・各記事へ→・トップページへ/他の記事へ
であることを求めながらも、
・検索エンジンから→・特定記事へ→・検索エンジンへ
となってしまいがちだということである。
オンライン・メディア運営者の内情を言えば、後者の“検索エンジン(からの)直行直帰型読者”は逓増しており、ケースによっては、メディア来訪者全体の30%を超えるような状態にもなってきている。
“直行直帰型”の読者行動は、まさにパッケージメディア的意図に対して自由である。
この場合、情報アグリゲーターが不在な状態と認識しておきたい。
と言うのは、検索エンジンが散乱する情報の大いなる仲介者ではあるが、かれには意図がないからである。
言い換えれば、検索エンジンには「情報に対する取捨選択」の意図がきわめて希薄なのである。
さて、結論を急ぎたい。
小林氏の発言に触発されて引き出されるオンライン・メディア側の命題は、2つある。
ひとつは、(読者に対して)散乱しがちな個々のコンテンツをいかにパッケージメディアとして差し出せるか。
もうひとつは、オンライン・メディアの“パッケージメディア”化が困難であるとすれば、代わりにいかに強力なアグリゲーターたり得るのか。
最初の視点、すなわち、オンライン・メディアが散乱しがちであることを止め、強力な編集長の企図に沿った読者の行動を求めることは、大いなる挑戦と見える。
なぜなら、読者の意図せぬ不規則な行動は、パッケージメディアとしての衰弱の果ての現象ではあるものの、同時に、読者がようやく獲得した“自由”の成果でもあるからだ。
次の視点。すなわち、いかに「強力なアグリゲーターであること」は、容易ではないが挑戦する意義がある。
私は、大方の認識とは異なり、Googleを筆頭とする検索エンジンはアグリゲーターたり得ていない、と考えるからである。
検索エンジンが読者に差し出すものは、大量かつ平板な情報選択肢の束となっており、その傾向はますます拍車がかかっている。ここで得られる体験は、差し出される情報の量に反比例し貧困化している。
検索エンジンに対して好意的な言い方をすれば、それは的を外していないものの、的を射抜いていないのである。
モダンで行動的なオンライン読者の重要な選択肢は、自らが“編集長”になるか、あるいは、自らの“編集長”を獲得することにかかっている。