芥川龍之介の妻、芥川 文の聞き書き『追想 芥川龍之介』は、高名な作家の“晩年”を身近な視点から照らしだした好著である。
このたびの“東日本大震災”に遭遇して後、ようやく日常へと復帰しようというこの時期、同書に芥川 文が記した作家の行動とコトバを想い出した。
いや、この点はもう少し精確に書くべきだろう。
あのような大災害に直接遭遇したとすると、自分ならどう振る舞えただろうかとの密かな疑念が、震災の後、まるで計測し得ない余震のようにつねに傍らにあり続けるのである。
この疑念が、芥川の震災をめぐる振る舞いの記憶を呼び起こしたのだというべきなのだろう。
当日はどうしたものか、主人は一人だけ先に食べ了えて、お茶碗にお茶がついでありました。
その時、ぐらりと地震です。
主人は、「地震だ、早く外へ出るように」と言いながら、門の方へ走り出しました。そして門の所で待機しているようです。
私は、二階に二男多可志が寝ていたので、とっさに二階へかけ上りまして、右脇に子供を抱えて階段を降りようとすると、建具がバタバタと倒れかかるし、階段の上に障子をはずしてまとめてあったのが落ちて来て階段をふさぎます。(中略)
私はその時主人に、
「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり先に逃げるとは、どんな考えですか」
とひどく怒りました。
すると、主人は、
「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」
と、ひっそりと言いました。(芥川 文/中野妙子 記『追想 芥川龍之介』)
本書で述懐された箇所を読み直す度に、生じる問いがある。
それは妻に「自分ばかり先に逃げるとは」と詰られたとき、作家は「逃げろと言ったではないか」「自分も動転していたのだ」と抗弁しても良かったはずなのに、どうしてそれをしなかったのかということだ。
だが、芥川は代わって「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」と認めるのみであった。
驚天動地の状況の下、どっしりとした家父長を、それが本能であるかのように演じることができなかった芥川は、 なにかをのみ込みながら、人間は「自分のことしか考えないものだ」という認識を述べる。
私は、この作家が奥方の責めに対して抗弁を試みず、あえて「人間は最後」一人で生き、そして一人で死ぬとの認識を示したことに、ひとつの誠実を見ないわけにはいかない。
それは、「ひっそり」と述べられたというように、返事というよりは沈黙に近い表明であった。
作家は時をあけず、自らの死を選択することになるのだが、その前に、やはり夫婦の間でこのようなやり取りが交わされる。
私はためらいながら、また階段を上って書斎にゆきましたら、主人は、
「何だ?」と言います。
私は、
「いいえ、お父さんが死んでしまうような予感がして、淋しくて、恐ろしくてたまらず来て見たのです」
と言ったら、主人は黙ってしまいました。(同上書)
ここにも、「人間は最後、一人で生き一人で死ぬ」との認識に魅入られた作家と、そういってよければ家族の絆との間に揺れる相克が示されているのである。