ブログ「アンカテ」にポストされた「『みんな』の為のメディアは必要か?」は、昨今のオンライン・メディアをめぐる議論に、ある種の決着をもたらす可能性を示していると思う。
もっとも「オンライン・メディアをめぐる議論」とは、私がそう呼ぶだけのことで、だれも議論などしていない可能性もあるのだが。
例えば、私が“議論”と呼ぶのは、以下のようなものだ。
- インターネットは(新聞)ジャーナリズムを殺すのか?
- インターネットは、メディアのビジネスモデルを破壊した
- 素人が情報発信をするインターネット時代は、メディアの品質を劣化する一方である
- (同様に)機械が情報収集するようなメディアを容認できるのか?
- (オンライン・メディアで)自分の好む情報だけを選んでいては、知性を劣化させる
- ……
誇張した面があるかもしれないが、職業的な意味でメディアに属している人たちは、こんな懸念をいくらかずつ胸中に秘めているに違いない。
ブログ「アンカテ」では、議論の根源を下記のような要因に整理して見せる。
- 媒体が紙か電波かインターネット(IPネットワーク)か
- 記事を書くのがプロ(専門知識を持ち職業として書く人)かアマチュアか
- 記事の選択や編集を機械が行なうか人間が行なうか
- 対象とする読者層が「みんな」なのか特定の関心領域なのか
例えば1. の点について言えば、突き詰めるとコストの議論にのみ帰着するだろう。
つまり、特定の関心領域(4.)に向けて発信されるメディアならば、コストが軽減されるIPネットワーク媒体(1.)の選択は合理的だ。
つまり、4つの視点に整理還元していくと、「メディアを殺すのか!?」と扇情的になりがちな議論の多くが冷却される。
当該ポストは、こう述べている。
ネットの台頭で、「アマチュアが書き機械が編集するメディア」が「プロが書き人間が編集するメディア」を駆逐してしまうという懸念は間違っている。ネットは、この二点において多様性を許容するし、今後、ビジネスの問題として整備されていくことが期待できる。
プロの書き手とプロの編集者が消滅することはない。ただ、これまで独占できていた領域に、アマチュアの書き手と編集する機械、機械をうまく使う編集者という
競争相手が出現したというだけだ。関心領域の性質によって、プロとアマチュア、機械と人間は、棲み分けしていくことになるだろう。(太字は原文)
しかしながら、論争に拍車をかける点が、別のところに残されている。
それは、「みんな」のためのメディアは、消滅していく運命にある、との指摘だ。
「みんなの為のメディア」は、紙や電波の物理的な制約によって成立していたメディアであり、今後、縮小し消滅していく。
「みんなの為のメディア」とは、初対面の人と雑談するのに、まず天気の話をして次に何の話をするかと言えば、新聞の一面に出てた話題か、近頃評判のテレビ番組の話題か、というような、無条件に共有できることを期待できる話題を提供してくれるメディアということだ。
(中略)つまり、一見「みんな」の為のメディアであっても、紙と電波の時代とネットの時代では「みんな」の意味が違い、役割も相当違うということだ。(同上)
当該ブログポストでは、「みんな」が読むメディアは、コミュニケーションプロトコル上、必要とされているだけであり、「ネットの時代」では不要となると指摘する。
言い換えれば、「みんな」はすでに存在せず、もう少し小さな関心上のコミュニティが無数に存在することがネット時代には鮮明になっているということだ。
「みんな」はすでに存在していないのに、その存在を前提に語ろうとする人々と、これまた最初から特定の関心領域に向けメディアを形成していこうとする人々(それはわれわれでもあるのだが)とでは、実は最初からその拠って立つ場所が異なっているのだと指摘されたわけだ。目から鱗の指摘とはこのことだ。
社会や経済、そして国家、宗教などなど。私たちに「みんな」を強制する要素は依然として多い。
したがって、「アンカテ」の主張を論理化するには、もう少し深い研究が必要とは思う。
だが、私の直感は、「みんな」というニーズが現代消費社会では急速に衰弱していること、もしくは明示しにくくなっていることは自明と強く共鳴する。
職業としてのメディアの再定義をめざす(わたしたちのような)人々は、この「みんな」以下の粒度の関心領域に対して最適化したメディア開発を目指すのでなければならない。
そして、倫理的な命題から、それを非難することから始めてはならないだろう。