アンドリュー・S. グローブ『インテル戦略転換』は、かつて日本半導体製造メーカーの包囲網下で苦しむインテル社が、CPUを本業とする現在の地位へと戦略転換を遂げた経緯を中心に、ハイテク企業が直面する経営課題を題材に経営を論じたものである。
原著作は1996年刊行。日本語訳は同97年刊行。
著者はその渦中にあった同社元CEOである。
原題「Only the Paranoid Survive」(パラノイアだけが生き延びる)は、本書刊行当時の流行語でもあった。
当時、同社はPC向けCPUメーカーとして不抜の地位を築いたものの、主力CPU「ペンティアム」のバグ問題の傷跡は生々しく、IT業界に身を置く者ならば誰でもが知る題材を多く扱った本書は、単なる回顧録と異なり虚飾を排して切実なものだ。
ところで、「ビジネス書」とはビジネスに役立つ書物を指すのだとするならば、本書はどう呼べばよいだろうか。経営に役立つことをもって「経営書」と呼ぶべきだろうか。
本書を言い表すには、それだけでは少し足りない。
本書は、ハイテク企業のアポリアを鋭く説くという点で、もちろん希少なビジネス書である。同時に、戦略転換点に踏み込んだ企業にあって真のリーダーが果たすべき役割を多く論じる。この点において、特筆に値すべき経営の書でもあると言える。
さて、「戦略転換点」とは何か。本書から引いてみることとする。
……戦略転換点とは、さまざまな力のバランスが変化し、これまでの構造、これまでの経営手法、これまでの競争の方法が、新たなものへと移行してゆく点なのである。戦略転換点を迎えるまでの産業は旧来どおりに見えるのだが、いったん転換点を通過すると新しい形に変貌する。戦略転換点では、曲線は微妙にだが根本から変化し、決して元に戻ることはない。
いつ戦略転換点が来るのかを正確に示すことは難しい。後から振り返ってみたとしても、やはり難しいのだ。友人とハイキングに出かけ、道に迷ったと想像して欲しい。最初に、グループの中で気弱な人がリーダーにこう尋ねる。「道はわかっているのですか。道に迷ったのではないですか」。リーダーはそんな人を相手にもせずに歩き続ける。ところが、道標や見慣れた目印もなく、次第に膨らむ不安感から、ある時点でリーダーはしぶしぶ立ち止まり、頭を掻きながら「おい、みんな。どうやら道に迷っているみたいだ」と認める。これが、ビジネスでいう戦略転換点なのである。
著者は、この戦略転換点というゾーンにさしかかった企業集団の不安な心理を見事に活写している。
私は、あなたや会社全体が苦しみ抜き、さもなければ滅びてしまうようなこの敵地を、死の谷と呼んでいる。戦略転換点には必ず存在し、避けて通ることも、危険を減らすこともできないところだ。できるのは、うまく対応することだけだ。
死の谷をうまく越えるためには、まず、谷の向こう側に無事たどり着いたとき、どんな企業でありたいのかをイメージすることが必要だ。あなたが自分の頭の中ではっきり描くだけではなく、疲れ果てて気力を失くし、動揺している部下たちにも伝えられるように、明確なことばで語ることができるものでなければならない。……
戦略転換点とは、このように、企業にとり既知の状況から未知のそれへ突入することを意味する。
人は、そして、企業は、突然未知の世界へと直面した際には、パニックに陥るか、もしくはパニックに陥らずとも保守的な行動に走るメカニズムを有する。
著者はこのようなメカニズムを熟知しながら、最初は企業集団に生じるカオスに身を任せること(=ボトムアップ)を説き、次に、ひとたびカオスを脱する方向を見定めては決然とリーダーシップを発揮すること(=トップダウン)のプリンシプルを説く。
振り返って、本書に初めて出会った折りに評者に重要だったのは、ハイテク企業は戦略転換点というべきポイントを必ず迎えるということだった。
ところが、改めて本書を通読してみれば、過去に新鮮であったこれら不可避な戦略転換点の現象記述はすでに退色しており、他方、危機を迎えたリーダーの経験を論述した箇所は際立って訴えかけてくるという変化に気づかされた。
ビジネス書から経営書へ。
本書は、再読、三読に耐えながらなお成長を遂げる書物である。これもまた本書が「経営の書」であることを証していると思えてならない。
※ 本稿は、 ITmedia エグゼクティブ「みんなのミニ書評」コミュニティーに投稿したものに加筆し、再投稿したもの。