民俗学の巨人、そして近代日本が生んだ最大級の思想家・文学者でもある折口信夫。
民俗学、宗教史、そして文学史研究上の大きな到達にもかかわらず、神道研究への傾倒もあってか、「いまではすっかり雑草におおわれてしまっているように見える」という。
この眠れる巨人が抱え込む途方もなく大きな思想を、現代の人類学的思考、国家・宗教研究の視点で再構成を図ったのが本書、中沢新一著『古代から来た未来人 折口信夫』である。
本書が描く巨人は、コンパクトな本書の規格に合わせ刈り込まれ、エッセンスへと蒸留され大変に読みやすい。と同時に、折口学の巨大さに拮抗する大きな構想を提示して、私たち読者を震撼させる十分な衝撃を備える。
著者は、折口信夫自身の際立った資質である「類化性能」が、現生人類の向こうはるか遠くに見える「古代人」の特性とすることから始める。
折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能」がとても発達していると語っていた。この言い方をとおして、彼は「古代人」の思考の特徴をしめそうとしていた。近代人は「別化性能」を異常に発達させた。そしてその傾向はすでに、奈良朝からはじまっていた。ところが、「古代人」たちの精神生活は、「類化性能」を存分に生かしながらかたちづくられていた。
折口信夫の考える「古代人」はこのようなアナロジーの思考法(引用者注=「類化性能」を指す)を駆使して、森羅万象を「象徴の森」で覆いつくそうとしたのである。現代の考古学は、そういう「比喩」が獲得されることによって、わたしたちホモサピエンスが出現したと考えている。つまり、折口の言う「類化性能」こそが、現代の人類の心を生み出したものであり、その「類化性能」によって世界をとらえる能力を発達させていたのが「古代人」であったとすると、折口信夫の「古代」という概念は、じつはおそろしいほどに深い時間の深度をもっていることがわかる。
「おそろしいほどに深い時間の深度」とは、この類化性能という「古代人」的思考が、すでに「都市の文化的な生活」が浸透し始めた「奈良朝」時代には失われようとしていることからも想像できる。それは、南洋の島づたいに航海を経て渡来し縄文文化の基礎を築いた人々の「魂のふるさと」を指す、めまいするような射程を示すものなのだ。
この有史以前のはるか彼方、「魂のふるさと」からの来訪者が「まれびと」である。この、死者であり精霊であり、そして異界の文化を伝える芸能者との親しさこそ、「古代人」の心性を解く鍵と折口は構想したのである。
…芸能の起源はそれよりもはるかに古い、人類の表現活動のはじまりにまでつながっている。この列島に一万年をこえる高度な文化を発達させてきた縄文人も、その例外ではない。南方のふるさとを出て、幾世代にもわたる旅の果てにこの列島にたどりついたこの人たちは、精霊の宗教と一体になった「はじまりの芸能」をもっていたはずである。
さて、このような「古代人」の思考が息づくわたしたちの宗教生活は、弥生時代を経て以降、死者と生者が分かたれ、超越者(=神)の抽出へと向かい、やがては“書かれた国の歴史”、つまり国家統合の装置としての宗教に接合されていくことになる。
折口信夫の「まれびと」論では、この世とはまったく時間や空間の構造の違う他界から、洞窟や森の精所などをくぐり抜け、この世に出現してくる精霊を迎えるための様式が、「古代人」の宗教のおおもとのすがたをしめしている、と考えられている。こういう「まれびと」としての精霊は、天からは降りてこない。水平的に遠くの空間から来訪してくる。つまり、「まれびと」は自然の奥底からやってくる存在ではあっても、けっしてのちのちの神のような超越者ではないのである。
しかし、この列島に国家が生まれ、国家の考えにしたがって神々の体系が整えられ、神社の形式が出来上がってくると、しだいに「古代人」たちが大切にお祀りしてきたような精霊的存在は、軽んじられてくるようになる。
著者は、折口信夫が神道研究をとおして古代人の心性を探り、さらにはそれを狭い土着世界に止めず、キリスト教やペルシャ太陽神信仰的世界にまで拡大しようとする営為を取り出す。
それを「人類のおこなったすべての観念活動の意味を、一貫した視点から再構成する」ものとして提示し、さらには、宗教としての神道がはらむ弱点(注=国家支配の装置へと組み込まれる可能性)を超克する「超宗教」の可能性として見ようとする。
折口信夫が『死者の書』等で見せる、ともすればミステリアスで晦渋な作品の意義に鮮やかな光を当てることで、著者はここで、折口学がはらむもっとも危機的部分から、もっとも豊かな可能性を取り出すという冒険を果たして見せるのである。
折口信夫の残した仕事を見渡してみるとき、わたしはその先駆性に、しばしば呆然とさせられる。彼はいまもまだ、前方をゆっくりと歩みながら、わたしたちの遅れた到着を待ちわびている人のようだ。彼が切り開いた道は、いまではすっかり雑草におおわれてしまっているように見える。その雑草を切り払い、わたしたちはもういちど、その道を歩みなおしてみる必要がある。折口信夫はいまも未来でわたしたちを待っている。
折口学への的確な要約と、とてつもなく大きい思想的構想をみごとに再構成した本書。それは眠れる巨人折口信夫との時空を超えた精神的交流を描ききったという点で、大きな感動をもたらす書でもある。
※本稿は、ITmedia エグゼクティブに投稿したものの再掲載である。