オルタナティブブログ--佐川明美の「シアトルより愛を込めて」のエントリから。
個人的にも存じ上げている佐川さん。その佐川さんに、いまの私の問題意識に響くシャープな指摘を受けてびっくりしている。
ブログを購読している喜びのひとつに、こんな体験がある。
さて、論点を改めて紹介する。佐川さんは、日経新聞、シアトルタイムズ、ニューヨークタイムズの記事を3つ紹介する。
そこにある「違い」とは? 私もそう謎を振られて各記事を読んでみたが「?」だった。
違い、わかります? 内容は関係ありません。そう、シアトルタイムズでもニューヨークタイムズでも、記事を書いた個人の名前があるのに、日経新聞の記事はそれがないのだ。
そう。確かに署名を欠いている。海外紙の“伝統”について見識を持たないのだが、日本の新聞では署名記事はごく少ない。
わが国新聞ジャーナリズムの伝統なのだろう。
結果的に親しみやすさを欠く。
さらに、記事の真偽については、記者ではなく新聞社が責任をもつ、という論理が前面に出てくる。佐川さんはさらに書く。
Seattle P-Iが紙媒体から撤退した時、社員有志が新しいオンラインニュースを立ち上げるかも知れないということを紹介した。その時のビジネスプランには、
(中略)"...we intend to continue the work of recognizable writers as Robert Jamieson, Mike Lewis, Art Thiel, and many others...."
(Robert Jamieson, Mike Lewis, Art Thielといった著名な記者の活動を続けるつもり...)
読者というエンドユーザーが、記者の個人名を知っているということは、これからの時代重要ではないだろうか。たとえ新聞社という船が沈んでも、記者個人が、自身の認知度を頼りにオンラインジャーナリズムの新たなビジネスモデルを確立する可能性が高いのでは?
長く引用させてもらった。「読者というエンドユーザーが…」のくだりは、本当にその通り。強く共感する。
上にも書いたように、無署名記事は、その新聞社、もしくはその新聞が記事の真偽や視点について責任を有する。
言ってみれば、それくらい全体が個を、個が全体をカバーし、一体化しているというリクツである。
その結果、記事をめぐってなにか事が生じても、全体が個を守ることになる。
佐川さんの言う、記者自身を前面に出すオンラインジャーナリズムでは、このようなケースで、全体が個を守ってあげられない。
したがって、ケースによって、記者はかなり厳しい飛沫を浴びることにもなるだろう。
それは心配な点でもある。
しかし、大きな流れは、佐川さんが指摘する方向に向かっていると思う。そして、それはそうあるべきなのだ。