大西氏が書いているのは、新聞と呼ばれる格式の高いメディアならいずれも「社説」に相当する欄を有していること。そして、そこで論説されているトーンが、「米国は……を示せ」といったもので、一体これは誰に向けられたものなのか、ということだ。
おっしゃるとおりだ。だれも不思議に思わなくなっているが、誰に対して影響力を行使しようとしているのか、よく分からない。
そこで、氏はこう書いている。
どうも社説というのは、高いところから語ってくるので、違和感があるのですが、プロ中のプロとしてのジャーナリストが、内部で喧々諤々議論し、書かれたものだそうですが、その割には心に響くいい社説というのにお目にかかったことがありません。
その大きな原因のひとつに、社説を書く人たちが、誰に向かって書いているのか、またどのような立ち位置で書くのかという、立場の置き方の悪さにあるのじゃないかという気がします。
「社説」の役割は、個々の読み手の内面に影響力を行使する、言い換えれば「心に響く」ことを目指しているのではない。
そうではなくて、当該新聞の読み手に向かって“天下国家”を論じる姿勢を示したいのだろう。
もっと身も蓋もない表現をするなら、天下国家を論じて、政治家に影響力を行使したいのではないか。
そう考えてみると、個々の新聞の政治的姿勢が、“右寄り”であろうが“左寄り”であろうが、この点においては共通するものであると気づく。
新聞メディアが、自身の多くの読者を後ろに従えながら、政治家に向かって「○×…せよ」と語る図。
ある大手新聞社社主が、一国の首相の首をたやすくすげ替えて見せようと暗躍したことは、記憶に新しい。
明治の草創期。新聞メディアは、政府機関に代わる公告機能から始まり民権志士らの天下国家を論じる言論拠点ともなった「大新聞」(おおしんぶんと読ませる)の流れと、戯作や社会のゴシップ報道的読み物機能を担った「小新聞」(こしんぶんと読ませる)の流れが存在した。
維新政府が安定基盤を作り上げるにしたがい、前者への支持は衰え、逆に後者はマス・メディア化した。朝日・読売らもこの後者の流れに端を発する。
現在、私たちが目にする新聞ジャーナリズムの多くは、小新聞に起点を有するものなのである。
いまや、いつのまにか「米国は……せよ」と、宙にこだまするような論説をなし続ける図には、興味を誘うものがある。