イザ掲載の記事から。
米国で、新聞社経営の危機的現況をめぐり、議会の公聴会が開かれたようだ。
新聞界を代表して出席した元ボルティモア・サン紙記者のデービッド・サイモン氏は「高級ジャーナリズムは米国で死に絶えつつある。新たなビジネスモデルが見つからない限り、ウェブ上であろうがどこであろうが、その代わりが誕生することはない」と悲観的な意見を述べた。
一方、インターネットのニュースサイト「ハフィントン・ポスト」代表、アリアンナ・ハフィントン氏は「ジャーナリズムの将来は、新聞がどうなるかとは関係ない」と主張。ネットを舞台にした市民ジャーナリズムが、これまで新聞が担ってきた役割を果たすと論じた。
いま、最も勢いのあるメディア人であるハフィントン氏(「ハフィントン・ポスト」については、新野氏のこちらのブログポストが詳しい)が、「ジャーナリズムの将来」と新聞社のそれとを混同すべきでないと語るのは、よく分かるところだ。
他方、サイモン氏が「ウェブ上であろうがどこであろうが、その代わりが誕生することはない」というコメントは、ハフィントン氏のそれとは、正確に対称的な位置関係にある。
つまり、ことはオフライン対オンラインかではなく、要するに「新聞社のビジネスモデルが行き詰まっている」ということ。
ジャーナリズムの生き方と、新聞社の現況とを混同すべきではない。私の考えもそこにある。
他方、新聞社のビジネスモデルを“食っていける”ものにすることは、可能だと考えている。
膨大なコンテンツ生成力と発信力は、依然として大いなる事業源泉だ。
大量な印刷物とその運搬、そしてそこに深く根ざしてしまった中間機能=販売網の全体が、これからの時代に新聞が生きていく困難の基本要因だ。
この困難を突破するには、コンテンツと配信機能の二元論を、徹底的に考え直す必要がある。
他方、地上波放送局では、すでにコンテンツ生成力による発展を放棄し、配信機能に傾いてしまった。
現状を改善するには、コスト削減以外に残されていない。後は権益維持に地道を上げることぐらいだ。
新聞事業には、まだ二元論の組み換えから再スタートできる余地が残されているはずだ。
さて、新聞でも放送でもない、私たちはいったいどこからどう再スタートすべきか。他人事をあげつらう気分ではない。