ITmedia Newsの記事から。ご存知、西村博之(ひろゆき)氏と夏野剛氏のライブ対談。
“ほぼ全文収録”的記事でボリュームたっぷりだが、飽かずに最後まで読ませる内容に仕上がっている。
2人の視点の鋭さと軽妙な話題の運び、そして記者の筆力が相まっての好記事だ。
私の関心を引く部分について述べる。「日本のITよ」とはあるが、IT論というよりメディア論として読んでみたい。
たとえば、テレビについて、以下のような言及がある。
ひろゆき まぁただ、テレビのモデルって100万人が面白がらなきゃいけないわけじゃないですか。100万人みんなが面白いものって少ないと思うんですよね。
例えば、女の子がバナナの皮で転びました、というのでクスっと笑える人はそれなりにいると思うんですけど、そこまで面白くもないので、テレビをつけて見たいものでもない。めちゃくちゃ面白いのは、楽屋落ちとか知り合いが出るもの。
面白さをマスに向ければ向けるほど、面白さの質が下がっていくと思うんですよね。というようなことをダウンタウンの松本人志さんが言ってました。
……(中略)……
テレビのコンテンツ自体が悪い訳じゃないってことだと思います。テレビはそれなりに面白いもの作ってるですけど、お茶の間まで来ないと見せないというモデルが問題。
……(中略)……
テレビコンテンツの魅力はちゃんとあって、見たいと思っている人はいるけれど、それを伝える手段は電波じゃなくてもいいんじゃね? という。
夏野 テレビは、番組、コンテンツとしてのテレビと、箱としてのテレビがあると思ってて。箱としてのテレビも、ネットにつなげて動画ダウンロードできたりするので、箱とか放送波としてのテレビって、あまり意味なくなってる。
話は軽妙で、いくらでも引用したいところだが、この程度に止める。
テレビをめぐり、ここでは2つの仮説が語られている。
- 「100万人」へ向けられた情報発信は、それにより情報価値を下げてしまう背理に見舞われる
- テレビ(ビジネス)の問題は、コンテンツ(番組)自体ではなく、その配信上の制約(“箱”としてのテレビ)にある
日頃、私たちが感じている、問題意識がシャープに言い表されていると感じる。
自身を振り返っても、自らが“興味深い”と感じる事象が、数多くの人々と共通しているとは思えなくなっている。
趣味の世界は、ひたすら細分化を遂げているのだ。
同様に、多くの人々はビジネスにおいても「仕事の専門分化」にさらされている。
100万人規模の関心事にリアリティを喚起されにくくなっているのだ。
では、テレビは、一人ひとりへと分化しようとしている人々に向けて柔軟に届こうとしているか?
どうやらそうでもない。
私を含め多くの人が、21時にお茶の間に集合する生活を送らなくなっている。
すでに少数化を極めた家族は、元旦にさえ集合しなくなっているのだ。
2人の指摘で鋭いのは、テレビも地上デジタル化、IP化に着手しているにもかかわらず、番組制作側の意識が変わろうとしていない点を語っていることだ。
番組の作り手自体が、“視聴者をお茶の間に釘付け”の図式から離れていないというのだ。
私たちに求められるのは、この図式の呪縛から自由になることではないか。