以前も取り上げたことがあるが、高広伯彦氏のブログ「mediologic/weblog」のポスト「Media BusinessからAudience Businessへ」に、次のようなくだりがある。
Media Business は、Audience Business に変わらなければならない。
ターゲティングというものが重要視されるのも、「どういった人に届けられるのか?」が大事だから。なので「ターゲティング」という広告の手法というか、メ ディアの技術というか、そのものがすなわち本質的であるのではなくって、「どういった人に届けられるのか?」を“売る”ことができるのか、が本質的に大事なんだろう。「枠」を“売る”ではなくてね。
Media Business から Audience Business へ: mediologic.com/weblog via kwout
メディア運営を業とするということは、要するにメディアから何らかの価値を買ってもらうということである。
買い手が読者そのものならば、それは読者の情報ニーズにぴったり寄り添い、読者自らの力では得られない情報を買ってもらう。
また、買い手が広告主企業であれば……。メディアという磁場に集う読者(消費者)の価値を買ってもらうのでなければならない。
メディアの収益源泉が、広告であるなら、そこに集う読者(消費者)に対しアプローチする権利(広告を掲出する権利)に金銭価値を見いだしてもらうのが、基本である。
私が広告主企業の立場であれば(実際に、そのような立場であったこともある)、そのメディアにとり、読者のどのような要素が、「金銭価値」に関与するとみるだろうか?
ひとつは、マーケティングしたい商品の対象購買層がそこにいること。
次に、その対象購買層の量と質が重要になる。
そして最後に、そのメディアという磁場で、対象購買層はどのように行動するのか、ということである。
最後の「どのように行動するのか」とは、例えば、商品を選択しようとしているのか、あるいは、商品に関連するうんちくを深めようとしているのか、といったことである。この違いは、同じ対象購買層にアプローチできたとしても、結果的として得られる行動は異なるはずだ。
さて、高広氏が上記ブログポストで使った「ターゲティング」の語は、この三つの条件に関わっていると考えればわかりやすい。
あるいは、別の立場で言い換えると、こうだ。
業としてのメディアの根幹は、「どういった人に届けられるのか?」について、真剣にコミットすることによって生じる。
先の私の補足を加味するなら、「どういった人に、どんな文脈で届けられるのか?」が、重要ということになる。
上記のような、「言わずもがな」の結論を語ることは、その背後に、ひとつの苦い決別を携えていることを知るべきである。
それは、メディアは普遍性に寄与するという視点である。
あるいは、限りなくマス(多く)の人々に(メディアは)恩恵をもたらすという、今ではそれを信奉することは破滅を意味するだろう思想との決別である。
代わって、ターゲティング・メディアをめざすとは、マス(多数)という価値概念をカッコに入れるということである。
別の言い方をすれば、いまや「マスという存在は、存在しない」のだという信念を、獲得することだ。
では、マスが消失してしまった今、何が私たちの前に残されているだろうか?
それは、数限りなく個別的な存在である。
そして、これまた個別的な形をした、“コミュニティ”なのである。
小林弘人氏は、このコミュニティについてすでに触れている。
多くの編者は、雑誌という形態に憧れる以前に、どういう内容のものをつくりたいとかイメージを抱いていると思います。つまり、その読者がつくるコミュニティのビジョンが明快であるはず。また、どのみち雑誌は一人ではつくれないから、多くの書き手が必要です。優秀な書き手は、優秀な読者だったりします。そういう人たちをコミュニティの中から発掘し、時にはプロのライターとして育て、あるいは同人たちと持ちつ持たれるつで、商売をしてきたのが雑誌ではないでしょうか。即ち、人間のライフスタイルの数だけ雑誌があって然るべきでしょう。(『新世紀メディア論』)
先に、「読者自らの力では得られない情報を買ってもらう」と述べた。
実は情報ニーズの提供だけが、読者に対するメディアの寄与ではない。
読者と同類を呼び集め、交感する場を創造することが含まれる。それを「コミュニティ」と呼ぶのである。
そして、このコミュニティが、「どんな文脈で?」に強く関わっていることは自明である。(この項、未完)