Twitterの興味深い点は、情報発信者にとって読者が、情報受信者にとっても発信者の顔が、見える(想定できる)ことである。
言い換えるなら、本質的な意味での情報非対称性が、そこにはない。
だれかが、一方的に「教える」のではない。「教え合う」のである。発信・受信の関係は、相対的であり流動的である。
コミュニケーションの両端において、構造的な(つまり、決定的な)非対称性を欠くということは、「コミュニケーション」=「コミュニティ(的行動)」という文脈を生む。
「メディアビジネスとはコミュニティへの影響力を換金すること」(小林弘人『新世紀メディア論』)
メディアビジネスは製造業としての側面を持つ。
そこでは、均質化されたコンテンツを、いかに低コストで、継続的に生産できるか、が重要である。つまり、「品質」「安価」「継続」がポイントとなる。
もうひとつ。メディアビジネスはサービス業としての側面を併せ持つ。
サービス業の基本命題は、「ホスピタリティ」にある。
しかし、「ホスピタリティ」には、その(サービス)品質を証明する明解な基準が、ない。「期待通りの」と「驚きの」価値、双方がつねに求められるのである。
メディアビジネスを、その持続可能性の面から考えようとすれば、製造業の側面における合理性、論理性を、重要な基盤としないわけにはいかない。
改めて。製造業としてのメディアビジネスは、「品質」「安価」「継続」を支える“仕組み”を必要とする。
この仕組みは、組織や伝統、ノウハウ、そして規模に関係することが多い。
言ってみれば“共通基盤”として対象化されなければならない。
生産性の高い工場の仕組みが求められるわけだ。
一方、サービス業としてのメディアビジネスでは、解答は無数にあり、収斂を嫌う。
属人性の極みが価値ともてはやされるもしばしばである。
“勝利の方程式”はタレントの数だけ存在する。
人に属する価値(それは、“才能”とも呼ばれる)には、目がくらみがちだ。
よって、属人性に委ねきって勝利の再現性という保証のない戦いを見かけることになる。
「編集長」は製造ラインのライン長たりうるだろうか? あるいは、「メディア」というパッケージのデザイナーなのだろうか?
編集長はメディアアーキテクトたるべしという考え方がある。
どんなコンテンツを、どんな人が、という仕事の采配だけではなく、どんな構造でそれを行うと、合理的か、効果的か、という“設計者”としての能力が必要、というのが論点である。その視点からすれば、現代の(オンラインの)編集長には技術的知識も欠かせない。オンライン・メディアの構造の多くは、技術によって形成されるからである。
同意はしながらも、別の視点もないわけではない。
編集長が必ずしも“万能”である必要はない、という基盤を生むことができれば、製造業としてのメディアビジネスは、合理的に拡大する余地が広がるだろう。
それは“編集長”、さらに言えば、編集者という職能の定義をモダンなものへと書き換えることになるはずである。
私たちは「設備集約型」事業の愚を嗤うことができるが、他方「労働集約型」事業の愚については無自覚である。
オンライン・メディアの現在、それは、労働集約を脱し、次に、設備集約をも脱した、“その次の段階”に入りつつある。
会社という形式は、かつての「労働集約型」、もしくは「設備集約型」の事業形態に即して成立してきたものと言える。
それは大幅に古びてしまった可能性が高い。
たとえば、地域分散した、小事業所での事業を効果的、効率的に運営する仕組みを学ばなければならない。
面白いことを読者に教えるプロではなく、面白いことを読者(消費者)から聞き出すプロを生まなければならない。
専門知識豊富、もしくは専門商品を製造する知識の在処を探しだし、消費者が求める情報へと翻訳する仕事が、プロのメディア人の働きになるだろう。
専門知識を有する人間自体が、情報発信をすることを妨げる要素は、基本的にない。メディアビジネスが関与するのは、生の知識をいかに摂取しやすくするか、その“ひと手間”の部分である。
新しいメディアビジネスに携わる者の、倫理とはどこからやってくるか? それを考え続ける必要がある。なぜなら、メディアとビジネスをつなぐ橋の根幹に関係するからである。
<未完>