デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム(DAC)社が、この6月に実施した「インターネットメディアに対する生活者意識調査」は、「目的」にあるように、「インターネットメディアの広告媒体としての“質”を目に見える」ようにという注目の試みだ。
リリースにて公開された「“質”ランキング」は4つ。
「信頼度が高い」「伝えたくなる」「新商品やサービスを知るきっかけになる」「集中してみることが多い」である。
一読後、脳裡に残るのは「インターネットメディア」として挙げられている数々の媒体名への、微妙な違和感である。
「価格.com」「Amazon.co.jp」「OCN」「楽天市場」「TSUTAYA online」……。率直に言って、「これらは媒体(社)なのか?」という思いである。
自身が「媒体社」を営む者として、ある種の固定観念があることは勘定に入れたうえで、もう少し考えてみたい。
DAC社はデジタル時代の媒体広告を取り扱う企業である。前掲したように、本調査の目的も「インターネットメディアの広告媒体としての“質”」に着目したものである。
つまり、この調査結果に挙がっている「媒体」は、DAC社が取り扱う(取り扱い得る?)「広告媒体」なのであろう。
そう。「価格.com」も「Amazon.co.jp」、そして、「楽天市場」さえ、いまや強力な広告媒体(もしくは、広告取扱い企業)なのである。
上に掲げた3つのサイト(事業体)は、実はEC、もしくはEC関連サイトである。モノを販売、もしくは販売の仲介をしながら、広告媒体としても機能をしているのが、これらである。
従来、狭い意味での媒体社には、モノを買うことと、その購入に関する有用情報は分離してあるべき、との視点が色濃くあった。
「売らんかな」との販売者による視点を、消費者にとって相対化するためにも、媒体は販売情報については客観的、さらに言えば、辛口のコンテンツ提供を心がける姿勢さえあった。
ところが、現代の消費者にとっては、そのような狭義の媒体社のスタンスへの共感は、目に見えて薄い。
これが当該調査結果を眺めながらの、改めての感想だ。
ここから先、述べることは、私自身の感覚的仮説である。
これらの「インターネットメディア」を、自身の消費活動(それは単純にモノを買う、という行動のみを指さないことは、指摘しておく)の中に組み込んでいる消費者にとって、「媒体」の当体が、購買の場(=ショップ)であろうとなかろうと、その「質」の評価において明瞭な差異がない。
私の想像だが、消費者は自身の意思において行動しており、その行動は、「メディア」の取扱いにより著しく動揺されない。
むろん、コンテンツのトーンにより、製品選択に異同は生じるとしても、たぶん、購買商品に関する情報の正否は、重層的に担保されているのではないか。
そのような成熟した消費者の意思決定にとって、「(商品の購買から中立である)客観的論評」という狭義の媒体社の矜持は相対化(絶対の価値観たり得なくなっている)されてしまっている。
もう少し言えば、先に挙げたパワフルなECサイト兼媒体には、自身の販売(推奨)情報を相対化する機能がビルトインされていることも、ポイントとなる。
消費者(購買者)によるレビュー情報や、価格の横断比較などがそれである。
細かいことを言えば、これら“客観情報”の信憑性を疑ってかかることも、できる。
だが、これらパワフルなインターネットメディア群は、“プラットフォーマー(別のポスト「ターゲティングと『ミドルメディア』——メディア論断章2.」で扱った佐々木俊尚氏の概念)”たる地位をすでに得ており、情報に偏向のあることが自社の益とはならない構造へと転化しつつある。
このことを直感的に知っている成熟した消費者にとり、これらを「信頼度が高い」と見なす根拠があるわけだ。
さて、ここからはさらに私のつぶやきになる。
狭義の意味における媒体社として、これら消費者にとっての質的価値観に割っていくことはどうすれば、可能か?
それには、やはり“プロの視点”がある。
成熟した消費者の選択眼を大きく越える、視点を提供する。いつの時代にも特別なアプローチはあり得る。
もう少し考えられる。ある種の視点、視覚の提案も重要だ。
プラットフォーマーが、プラットフォームたろうとすればするほど、コンテンツに対して平等、そして網羅的であろうということになる。
これを揺さぶれるのは、網羅的であったり、平等であることに対する異化である。
ひとつは、上記した“プロの視点”がある。加えて、季節性や特定の関心から情報を整理すること。
消費者間の情報交流をさらに促すアプローチもありそうだ。詳しくは述べないが、CGMに限らず情報の双方向性は、ポイントとなりそうな予感がある。
本調査は、媒体社の狭い思い込みを大きく揺さぶる威力を発している。
これを打ち返すほどの取り組みが、メディアの将来を真剣に考える私たちから提案されなければならないのだ。