見よう見まねでtwitterを始めて約4か月を経た。
どうでもいいようなことだが、簡単にステータスを確認しておく。
フォロー数が34となった。
フォロワー数は179である。
投稿数は920と、1,000の大台に近づいた。
こういったスタータスが、どんな意味があるのか分からないが、ともかく、使い続ける中で数字は着実に大きくなっている。
怠惰な自分がこれまで継続できていることが、まず最初の驚きである。
twitterは、明らかに継続しやすい特性がある。
以前のポストで(こちらを参照)述べたように、iPhoneのようなすき間時間を駆使しやすいデバイスとの組み合わせにもよっている。
もう一つの、自分にとっての発見は、twitter独自のメディア的特性に関わっている。
上記のポストで触れたことだが、フォロワー数が100の時点で、その内訳は1/3ずつ、同僚、知人、そして未知の人々と見ていた。最初の2種の関係者のその後の伸びは当然少ない。言い換えれば、未知の人々がその後の伸びを支えている。
多くの“未知の”フォロワーの人々は、フォロワー(「友だち」)のフォロワーを介して、Rteweetなどで偶然のように私のポストを見つけてくれるか、あるいは、お気に入りのキーワードをtwitter上で検索して、私のポストに到達しているようだ。
キーワード検索を通じた、私のtwitterは「戦後詩」「神田かいわい」「哲学」などであり、たまには「IT関係(たとえば、iPhoneなど)」といったものと見えているのだろう。
ところで、twitterを始めて認識したことのひとつは、フォロワーを意図してたくさん集めようとしている人々が存在しているということだ。事業者がそうしている場合もあれば熱心な個人もいる。
“たくさん集める”ための作戦に、いまのところ有効らしいのは「たくさんフォローする」ということだろう。
つまり、twitterワールドには互酬的な特性が生きており、フォローすればフォローし返してくれるという反応をかなりの程度期待できる。この点はすなわち、twitterのソーシャルメディア的特性を表わしている。
ここで私が議論したいことを明瞭にするために、次の仮説を立ててみよう。
果たして、この仮説は真か偽か?
140字に大いなる情報価値があるとは言えないと見るなら、個々のポスト(コンテンツ)より、その主がどのような文脈にあるかが価値を持つ。
確かに、私自身が選んだ数少ない「友だち」の何人かは、その人物の“いま”が気になっているというケースがある。
他方で、140字とは言え、そのコンテンツが情報価値を発揮しているというケースもあるのだ。
私自身の「つぶやき」には、自分のコトバではなく、古今東西の書物(そんな形容しかできない点が、気恥ずかしいのだが)からの引用を、かなりの頻度で含んでいる。
ある程度確証を得たのだが、この「引用」は140字程度とは言え、コンテンツ価値を独自に持っている。
その証明のように、私の引用を見つけてフォローしてくれる人が少ないながら存在する。
つまり、「(それ自体では情報価値の低い)投稿にではなく、その人物に対して興味」を持っているからという仮説は、ここでは否定されるのである。
この点は、コンテンツではなく人物に価値がある、というソーシャルメディア性と乖離する点だと言えそうだ。
さて、手短に私がいま感じている認識を述べるなら、
- twitterは初期段階にあるメディア(媒体)である
- メディアの初期段階では、人と人(のコミュニケーション価値)という関係に重みがある
- メディアの成熟段階では、人に付随するコミュニケーション価値から、情報価値が分離していく傾向がある
- twitterの提供者は、現在のところ、メディアの初期段階(2種の価値が未分離な状態)をなるべく維持しようと、複雑な機能提供を見合わせている
といったことが言えそうだ。
これらことは、現在の産業化した“メディア”を考える際に重要なアプローチとなる。
つまり、メディアの原初的な姿は、人と人のコミュニケーションに近いところに存在していたと想像できる。
文字化、そして複製の機能の発達に伴い、人と人の間だけで成立するコミュニケーションを越えたところに、コンテンツの自立が生まれたと考えてみたい。
現在、メディア(ビジネス)を考えると、この人と人の関係は隠蔽されメタな情報として置かれていることがわかる。
コンテンツからソーシャルグラフが分離している状態と言い換えてもよい。
twitterが例示するのは、メディアをめぐる二つの価値が融合することに、いまや多くの人が夢中になっているらしいことだ。
自身のメディア論にとって意義のあることなので、書き留めておきたいと考えた。