TechCrunch JAPANのポストから。
過去CNETのCEOを務めたり、今またデジタルパブリッシング企業を率いているShelby Bonnie氏の論考である。
本稿は、そのタイトルにある通り、“オンライン・メディアの貨幣”であるCMP志向を激しく批判しようとするものだ。
CPMとは何か。先にe-Wordsの解説を見ておこう。
CPMとは、Webサイトの広告掲載料金の単位の一つで、掲載1000回あたりの料金。これに掲載対象ページの閲覧数(ページビュー)を乗じて1000で割ったものが広告掲載料金となる。
最近では、CPM単位での課金は大手Webサイトに限られ、中小サイトではクリック回数あたりの課金や、成果報酬型の課金方式が一般的になっている。
第1段落が重要である。媒体(広告を掲載するメディア)の価値、言い換えれば媒体が主張する広告単価が一定であるとすれば、算式的には、
となる。
ここで潜在的、顕在的な変数が3つある。
- 閲覧回数分広告を掲載したいと考える広告主の数(これは、媒体にとって市場規模そのものである)
- 媒体価値(取引が是認させる、広告単価を決定する要素)
- 閲覧数(広告を表示する回数)
媒体運営者にとり、これら変数について操作が可能である度合いは、3.→2.→1.の順である。
1.と2.は相関性が高い。
媒体運営者にとっての悩みは、オンライン・メディアには参入障壁がまったく存在しないことだ。
オンライン・メディアへの参入は日々続く。さらに厳しいのは、「媒体」と呼び得る領域そのものが急拡大していることだ。
従来の新聞社、放送局、出版社などの“媒体運営者”だけが、当分野に参画するわけではない。
個人がブログで、異業種からSNSや掲示板、価格比較等で。さらには、広告掲載先を外部に依存してきたはずの企業自身が自社Webサイトというメディアを構築する……。
このように、プレーヤーの参入超過傾向により、広告表示機会は膨張を続けている。
他方で、人口減傾向のわが国では、インターネット利用者の数とその消費時間の総和は天井を打ちつつある。
供給は一方的に増え、需要は低迷する構図。
市場の需給関係で成立するのが、媒体価値とすれば、これを継続的に向上させることは厳しい……。
にもかかわらず/だからこそ、オンライン・メディアにあって「広告表示回数」が基本的な貨幣であり続けとすれば、その増加の裏側には劇的な媒体価値の下落が生じておかしくない構図が現出しているのだ。
前提が長くなってしまった。Bonnie氏はたとえばこのように書く。
それはもはや何も意味していない。あらゆるメディアからのインプレッションの洪水と、毎日ユーザの上に降り注ぐインプ レッションの絨毯爆撃の中で、それはもはや、どうでもいいものになってしまった。それは、メディアがまだそう多くなかった時代の遺物であり、元々は特殊な 業界用語である。上で述べたように、テレビやラジオや印刷物には自然な制約があるので、それほど過剰にはならない。そこで昔の広告 (advertisement)は、元々の‘人の注意を向ける’という意味のとおりに、それを見るだけでインパクトがあり、ユニークだったのだ。今は、そんな時代ではない。
「インプレッション」=広告表示機会は、現在も増え続ける。広告表示機会増に純化した指標のみを追い続けるならば、オンライン・メディアはそのための技術投資を加速し、ますます“見られていない(=注意を払われない)広告”をさらい増産し続け、結果的には、媒体価値の下落、さらに言えばメディア自身の短命化に拍車をかけることにもなるだろう。
そうでない歩み方があるか?
この点についても、Bonnie氏は意見を述べている。
測度は実際に求めるものの測度であるべき。あなた(広告主)が金を払う対象を、掲載者は大量生産し始める〔CPMに金 を払えばCPMが量産される〕。だから、エンゲージメントがほしいのなら、エンゲージメントに金を払おう。測度が一つなのか複数あるのか、それはまだ明らかでない。ユニークビュー、アクション(共有、寄与貢献(投稿など)、エンゲージ)、そして滞留時間などが最初のとっかかりになるだろう。
この箇所には心底同意である。取り上げたBonnie氏の論のキモはここにあると言っていい。
「あなた(広告主)が金を払う対象を、掲載者は大量生産し始める」は、資本主義的命題の下にあってまさに至言である。
ただし、重要なことはこれが出発点に過ぎないことだ。
「エンゲージメント」「ユニークビュー」「アクション」「滞留時間」……。
候補はさまざまだが、それをひとつに収束させるのは容易でない。
広告主にとっても、“答え”が明解ではないからだ。
どうしてか? 広告主が実施しようとしている広告宣伝を介したキャンペーンは構造体である。
構造体を片々に分解すれば、それぞれの部品にとり担うべき指標は得られるだろう。だが、それらを構造体として組み上げた全体にとって、正しい解が得られるのかどうか、確証に乏しいからである。ここに広告主の側の悩みが集約される。
媒体運営者にとり、片々に分解された部品としての役割を積極的に引き受け、その役割に徹しようとするのか。
あるいはまた、全体に最適化された解を導く役割を担おうとするのか。
そこにはそれなりに大きな意思決定、そして戦略と投資が求められる。