小林弘人 『新世紀メディア論 新聞・雑誌が死ぬ前に』より。
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注目のメディア人、小林弘人氏の新著は、私のような仕事をしているものにとって刺激的で、かつ、啓蒙性に富んでいる。
小林氏は、おもにレガシー系(つまり、プリント系)のメディア人に対し、押し寄せる大波について、警句を込めて語っている。
が、その警句はすでに、ウェブメディアへと“ルビコン河”を渡ったはずの、自分たちに鋭く刺さってくる。これはどうしたことか!
たとえば、住宅情報誌や中古車情報誌は雑誌ですが、ビジネスモデルは企業や販売店からの広告によって成り立っています。「出版」とは、換金手段のことではないと考えます。
特定の読者に対して情報を提供し、コミュニティを組成し、そのコミュニティに価値が宿るのではないでしょうか。
つまり、メディアビジネスとはコミュニティへの影響力を換金することであり、自動車販売や家電品のようにすっきりしないの、1台売っていくら、という商行為ではないからです。……わたしはこの誰もがこれまで専業者でなかっただれかと競合するような、すぐにメディアを立ち上げられる時代を「誰でもメディア」の勃興期として捉えています。この「誰でもメディア人」たちは、発信者であると同時に、受信者なのです。……
ただし、わたしはそんな時代だからこそ、誰もが「誰でもメディア人として成功する」とも考えていません。
……多くの日常的な写真撮影は「誰でもフォトグラファー」によって行われています。しかし、プロのフォトグラファーとして食べていくことは容易ではありません。むしろ、どんどん大変になっているのです。わたしの理解におけるアテンションエコノミーとは、インターネットやさまざまなメディアインフラの普及により、情報が超供給過多となり、その中で人々の注意(アテンション)を喚起すること自体が、経済活動の中でも重要な役割を占めているということです。そして、人間のアテンションは無限ではなく、有限であるため、狭いパイの奪い合いとなるわけです。
いつも、メディアが新しいメディアに(たとえば、テレビがインターネットに/本が携帯電話に/映画がDVDに)脅かされているという話は、人間の時間が有限であるため、可処分時間を巡り、さまざまなデバイス(情報機器)がパイの奪い合いを行っているという話だったりします。
メディア企業による記事タイアップは今後もなくならないと思いますが(第三者による称賛のほうが自分で主張するより、それっぽいですからね)、わたしは今後の企業活動におけるメディア戦略は、「PR」よりも、「ストーリーの提供」という方向に軸足を移しつつあると考えます。
それは、「企業が言いたい情報」の提供ではなく、相手が読みたいストーリーを提供することです。そして、そのストーリーの中や、あるいは近くに「企業が言いたい情報」への導線を確保することが必要になってくるでしょう。
この場合(注=アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のプロモーションを例に、「ストーリーの共有と創出」が重要と指摘している)、わたしがカギと言ったのは、優れたストーリーを提供することさえできれば、多くの人たちがそのストーリーを中心にメディアを創出し、さらに大きなストーリーを紡ぐことができる、という可能性のことです。
これまでのメディア組成はトップダウン型でしたが、現代はフィードバックや新しい提案も含めて、メディアは複合的につくられています。……これからの編者は、単にコンテンツをつくるだけではなく、人の導線というものをどう設計できるかが求められていると思います。
おさらいをすると、これからの企業におけるメディア戦略では、企業が一方的に主張したいことが「主」ではなく、提供するストーリーの「従」となります。これは、メディア活動そのものです。
かつて、わたしの仕事上の知己でもあり、その著作『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』(日経BP社)の著者ジョン・バッテル氏は、自分のブログで、メディアを「パッケージされた物メディア(Packaged Goods Media)」と「会話型メディア(Conversational Media)」という2種に分けています。
バッテル氏は、「パッケージされた物メディア」の考え方は、コンテンツの配布先がインターネットでも、発行者にとって、それはニューススタンドやケーブルで配布するのと変わらず、せいぜい配布チャネルのひとつくらいに見なしているということを述べています。
そして、興味深いのは、「会話型メディア」との決定的な差異について、「パッケージされた物メディア」が依拠しているのは、「知的財産の所有と統制」であり、「高価な配布システムの所有と統制」、さらに「前述した2つに依拠する広告と定期購読によるビジネスモデル」だと整理しています。これは飛び抜けて大きなポイントでしょう。なので、「会話型メディア」はまったく違うビジネスモデルとなることを示唆しています(彼が語る「会話型メディア」は、主にCGM、ソーシャルメディアのことを指しています)。前述のジャービス氏(注=BuzzMachineのブロガー、ジェフ・ジャービス氏のこと)は、「雑誌の価値は編集者でも、記事にあるのでもなく、それは雑誌を取り巻くコミュニティ」であると言っています。
読者に届ける手段について、それが「搬送」、もしくは「通信」、あるいは「放送」なのか言葉の定義はともかく、それらはすべて送り手側と受け手側にとってのコンテンツをやり取りする際の広義の意味での「プロトコル(通信手順)」にしか過ぎません。
「出版」は、プロトコルがそのまま「出版」という言葉を示すようになりました。
コンテンツについて語られることの多くは、紙を束ねた雑誌という形の容器に閉じ込め、印刷所からトラックで全国の書店に搬送し、売れなかったら返本される委託配本制など、これは受け手側と送り手側におけるプロトコルの話です。
いまではコンテンツが紙という容器より飛び出て、インターネット上における雲(クラウド)として遍在しています。「Hanako」や「グルメぴあ」もそういった例なのかもしれませんが、共通の趣味や性癖などコミュニティ組成に直結するもの、またCGM的なもの、あるいはイエローページ的要素が強いもの、これら紙媒体はウェブに移行する必然性が高かったわけです。
上記の雑誌は、ウェッジシェイプ(くさび型)などとも呼称され、くさびがひとつの方向に鋭く起立するよう、特化した目的のために存在するような、読者のために「機能」を磨いて売りとするメディアです。
そのような機能提供型のメディアは、ビジネスモデルも明快で、ウェブや携帯、そしてまだ見ぬ新テクノロジーの革新と親和性は高いと思われます。これらはコンテンツのアグリゲーション(集約)が命であり、文脈やテイストはさておき、まず先にその分野を切り拓き、ブランドを確立することが大切でしょう。
多くの編者は、雑誌という形態に憧れる以前に、どういう内容のものをつくりたいとかイメージを抱いていると思います。つまり、その読者がつくるコミュニティのビジョンが明快であるはず。また、どのみち雑誌は一人ではつくれないから、多くの書き手が必要です。優秀な書き手は、優秀な読者だったりします。そういう人たちをコミュニティの中から発掘し、時にはプロのライターとして育て、あるいは同人たちと持ちつ持たれるつで、商売をしてきたのが雑誌ではないでしょうか。即ち、人間のライフスタイルの数だけ雑誌があって然るべきでしょう。
旧来の編集者が印刷所への入稿のための知識をもっているのと同様、新編集者はCSSやXML、またDB(データベース)のテーブル設計、あるいはUI(ユーザー・インターフェイス)におけるAJAXの導入や仕様についての知識を仕入れる必要が出てくるでしょう。もちろん、分業で行うこともあれば、エンジニア自らがディレクターやデザイナーを兼ねることもあるでしょう。そもそも、メディア構築とは、よろずや的であり、職能がクロスオーバーしています。なので、構築者自身がどのような職能者であれ、「編集」という概念をもち、使う側の心理や使い方について熟考することが大切です。……
そう、編集とはその対象と分かち合う相手への「愛」。そして、技術や見た目へのオタクなまでの情熱やこだわりを指すのかもしれません。そして、多くの出版社の間違いは、コンテンツだけを与えればネット上でもメディアが成立すると思っていることです。これから、出版社などのメディア企業が抱える頭痛の種は、競合する相手が自分たちと似たような企業ではなく、1人か、もしくは数人くらいまでによってローコストで運営されるメディアとなることです。
高額の給与や家賃、諸経費という固定費縛りがある企業が、寝ずに頑張る個人と競り合うことは、大変なことです。前に記した通り、ネットの水平線上で情報を発信するという行為は、そのほとんどがメディア組成ですので、プロだろうがアマチュアだろうが同じ土俵で競合しあうことは充分に想定されます。ゆえに、これからのメディア企業は、すでに保持する権益を活かせる寡占的な部分に選択と集中を行い、そうでない「誰でもメディア」を目指す人たちは、ゲリラ戦を仕掛けていくことになります。そんななか、「職業メディア人」、あるいは「フルタイムパブリッシャー」は、ますます、アマチュアパブリッシャーと差別化をはかる努力が必要な時代になるでしょう。
これまでは、「出版社、ないしはその他メディア関連企業に入社した」がメディアにおける特権的な身分を保証したかもしれませんが、凡庸な企画しか出せず、文芸といえば村上春樹くらいしか読んでおらず、他言語に通じているわけでもなく、プロデュース能力やマーケティング能力に長けているわけでもない「高学歴な凡人」サラリーマンのつくるメディアよりも、業態こそ違え、社会経験豊富な専門家の送りだすメディアのほうが魅力的な時代です。そのように、「誰でもメディア」の特徴は、単にアマチュア以上プロ未満のメディア人を掘り起こすばかりではなく、ニッチ分野のチャンピオンと、その情報がほしかった人たちを接合することで、これまで可視化されることがなかったけれど、確実に存在していた専門性の高い分野を扱うニッチメディアの市場と可能性をぐっと引き上げることになります。そして、これら専門性の高いメディアがトルソーという中核、つまりこれからのメディアにおけるボリュームゾーンを占める割合が高いのではないか、とわたしは予想しています。
新しい文法の発見こそメディアの醍醐味
プロであるということは、逆にいえば、過去の資産としてこれまで培ったスキルを持ち込んで闘うということです。そのため、新しい読者に対応が遅れてしまう場合があります。わたしは決してプロのスキルを軽視しているわけではありません。むしろ、その逆です。
ただし、新しいフレームは過去の職人を排除してしまうかのように振る舞う傾向があるのも事実なのです。決して、表現できることが高度になったわけではなく、もっと多くの人たちに利用されるべく発明されるものが多いため、そこから生まれる個々の表現そのものは、それまでのツールや経験を習得する時間を短縮し、技巧よりもアイデアそのものや表現力に重心が移り、専門的な知識をもつ人よりもそうでない人たちから、新たな表現者を生む可能性が芽生えることでしょう。
しかし、逆にいえば、だからこそ「誰でもメディア」なのです。重要なことは、送り手がそのプラットフォームの一番のユーザーであることでしょう。頭で仕入れた知識だけで闘えるのは、もっとそのプラットフォームが電話機並みに普及してからのことかもしれません。……
新しいプラットフォームがつくるスフィア(生態圏)では、そこに棲む人たちの関心や行動パターンなどを、皮膚感覚で理解する必要があります。それが「その他大勢」よりも優位に立てる条件であり、ライティングや動画製作のプロであるか否かは二の次だとわたしは考えます。旧来メディア人はこの「個の声」を消すことを訓練されてきたわけです。しかし、「誰でもメディア」時代は、その逆をいき、共感を引き出すことがパワーをもちます。
かつて、印刷機や映像機材など、情報発信に必要な設備投資とそれらを格納すべき土地は、個人の財力では賄いきれないものでした。現在も、それらを所有することはできませんが、それに近いものならワンルーム程度の空間において所有することが可能になりました。
PCや携帯電話、PDAの登場により、既得権を寡占できる人々や企業の周辺を、無数のナノ(極小)メディアが取り囲んでいます。テクノロジーが個々を目指して散らばったおかげで、形成されたメディア空間です。あとは、放送事業に必要な免許、出版のための取次制度、記者クラブなどといった垣根が取り除かれるか、もしくは形骸化して情報発信という枠組みと無関係なものになったとき、個人であれ、マスメディアのような大企業と「環境だけは」同等なものを手に入れることになるでしょう(というか、すでにネット空間はそういう場所ですが)。これも再三、述べていることですが、「誰でもメディア」の必勝法である「既存メディアが本来果たすべきであった進化を奪取せよ」の法則からすれば、将来におけるブランド化は、過去に既存メディアがそのブランドを確立してきた要因を分析し、それがまだネット上で行われていないのなら、明日からでも焼き直すだけでいいのということなのです。しかも、老舗ブランドであればあるほど、保守主義に走り、適切な進化を果たしていない例が散見されます。
技術革新がもたらす構造不況の可能性
「フローする」情報は、もともと紙メディアよりも親和性が高く、情報の取得・加工、配信までの時差をどんどん短縮していきます。やがて、OOH(屋外広告)も電子化され、デジタルサインネージに切り替わることで、フローの高いメディアに生まれ変わるかもしれません。静的な看板よりも、電子的にコンテンツを入れ替えることで、時間帯を変えての表示が可能となり、高収益を見込めるからです。
ただし、電子コンテンツの難しい点は、フローが高まることで、価値の逓減も早くなるということです。これを、わたしは「電子メディアの収穫逓減」と呼んでいます。フローが激化すると、総体的に価値のデフレーションに繋がりかねません。つまり、貴重だったものがどんどん巷にあふれ、その逆に人々はメディアリッチな体験者になっていきます。メディアリッチになる一方で、それらの価値は低くなるというパラドクスをはらんでいます。……フローが高いがゆえ、価値のデフレが起きているので、コンテンツ自体の価額はいまより上がらないでしょう。つまり、タダ同然で入手できるのにもかかわらず、それに対価を払おうとは思わない人が増える一方ですが、同時に、コンテンツへの期待値は高まるばかりなのです。……
技術革新はコストを下げますが、フローが高まるあまり、人間を駆逐するという側面を秘めています。……技術革新は、業界全体を構造不況に陥れかねません。これを乗り切るためには「身軽である」ということが、「誰でもメディア」時代の必須条件になります。「身軽」ということは、固定費、設備投資が少なく、人を多く抱えない、ということです。
メディアビジネスの場合、長期において価値が下がらないコンテンツのアーカイブであれば、狙った作り込みがなくてもストックとして魅力的です。新製品情報よりも、専門性が高い用語などの解説記事はストックとしての価値が見込めることでしょう。その意味で、わたしは専門分野に特化した出版社や新聞社ほどブログやウェブメディアとの相性は良い、とかねてより主張してきました。今後は、行動属性別にメディア設計することで、コンテンツ・ホルダーやパブリッシャーは、ワンソース・マルチユースならぬ、ワンメディア・エニタイム・エニプレイスを目指すことでしょう。しかし、そう考えていくと、クロスメディアの未来は「複合型」よりも「テーマ切り」による、ワンテーマ・パブリッシャーのほうがビジネスモデル転換を果たしやすいかもしれません。
たとえば、ポルシェ専門誌のほうが、毎回違うブランドの車特集を行う雑誌よりも、ビジネス上の水平展開がしやすいのではないでしょうか。「テーマ切り」メディアはターゲッティング・メディアであるがゆえ、検索エンジン経由の顧客やコミュニティとの相性が良いのです。
ポルシェに関していえば、ウェブサイトから携帯上において商品情報やレビューはもちろん、ポルシェを扱うショップの検索機能、アフィリエイト、物販、カスタム情報、中古車情報、ユーザー同士の交流を促進するなど、水平展開が考えられます。それらを総括したとき、売り上げの規模は紙メディアのそれを凌ぐ可能性があります。そこに既存の紙媒体を加え、ブランディングや宣伝に使うという割り切りもあるでしょう。メディアの定義については諸説ありますが、ここでは定義うんぬんではなく、メディアの役割が変容しつつあるということを述べています。かつて、印刷機が登場するまでは、人間が原本から複写(書き写し)し、印刷機が登場した後、活版印刷からオフセットへ、そしてDTP、ウェブへとメディアを組成する技術や環境は激変してきました。すなわち、メディア空間は拡張し続けているのです。ゆえに、かつてのメディアの役割がそのまま次代に持ち越されるというわけではないため、“メディアの役割”も多様化していくものと予想されます。
では、拡張された今後はどうなるのでしょうか? わたしは「メディア体験のシンジケーション」だと考えます。ひとつのメディアから、リアルであれ、バーチャルであれ、特性の違うメディアを繋げ、しかし、どのメディアにおいてもユーザーがロイヤリティを感じるブランデッド・メディアを築くことが、次代のメディア・クリエイティビティではないかと思うわけです。電通のクリエイティブ局に在籍していた吉良俊彦氏は、雑誌を「情報に重点を置いたターゲットメディアである」と看破していますが、雑誌的なるものが進化した「誰でもメディア」は、ユーザーを引きつけるところからコンテンツ・デリバリーまでを含めた配信手法そのものが「ターゲットキャスト」である、とわたしは考えています。……
ブロードキャストの場合、大きな喚起を促すなどして、認知(パーセプション)の変化をもたらす「投げ網大量漁業」といった感じですが、ターゲットキャストは、狙う獲物によって仕掛けや餌、釣り場が変わってくる「ピンポイント漁業」になります。つまり、「誰でもメディア」時代の到来は、コンテンツを編むということだけに関していえば、「誰でもエディター」の時代であり、コンテンツの種類によっては、プロデューサー、ファシリテーター、プログラマー、デザイナー、フラッシャー、サウンド・クリエーター、システム・アーキテクト、インテグレーターなどをも兼務、もしくは兼務しないまでも、各種の領域間はボーダーレスとなっていきます。
そのため、(1)ウェブ上での人の流れや動きを直感し、情報を整理して提示する編集者としてのスキルを有する、(2)システムについての理解をもち、なおかつUI(ユーザー・インターフェイス)やデザインについて明解なビジョンと理解をもつ、(3)換金化のためのビジネススキーム構築までを立案できる職能者である、……というスキルセットが、体系的に訓練されるか、もしくは各自独学でジャンルを越境していく必要があると考えます。
それは紙のメディアだけに従事する「編集者」がウェブ上でも編集者になれる、ということを意味しません。わたしはメディアの進化や変容に無自覚な編集者が、そのまま旧来の「編集」のような“空間の司祭”のポジションにスライドすることは難しいと考えています。システム開発会社なら、企画立案はもちろんのこと、仕様が書けてプログラマに伝達することができる人材、また、ネット広告系ならばSEOやSEMの達人がいますが、そんな自分の「強み」を育んだ領域を軸として、その強みを徹底的に拡張させていくことでしょう。その際に「メディア心」があるかないか、そのさじ加減一杯か二杯か程度の量が、決定的な大きな差異になるということだけは確信できます。
……つまり、“次代の編集者”は、いま考えられている“編集者”ではなく、越境によって職能を超えた地点に辰ものと推測されるわけです。もちろん、旧来編集者も、その地位に立つことは可能です。むしろ、テキストをどのように扱い、サービスをいかように構築するかという点を理解しているという点において、アドバンテージはあるのですが……。
でも、現実には、多くの人は越境したがらない(苦笑)。無人・有人を問わず、誰でもメディア時代は、誰もがメディアの主なので、リーダーが不在です。そして、それぞれのメディアは自律して活動しています。しかし、スォーム(注=複雑系における概念。動物などが集団で行動する際の法則を指す)のコミュニケーションは、まさに互い同士が注意を払い合い、そして集団で連携していきます。
大切なのは出版(=メディア)魂や編集魂であって、編集者という肩書きではないと思っています。あなたがメディアであればいい。メディアのワイルドサイドを歩け!と、若い編者には言うのですが、「本当は、大手出版社に行きたかった」と言うのを聞いて、ずっこけてしまいます。
無論、わたしはブログメディアだけが未来のメディアだとは思っていません。しかし、進化していく先に通過しなければならない扉がいくつもあるとしたら、そのうちのひとつだと考えています。もともと雑誌とは、それが取り扱う特定ジャンルが好きで好きでたまらない人間が編集者として立ち上げ、それがムーブメントになってきました。つまり、先に編集者ありきだったのです。同様に、ブログの場合も、少人数で運営する場合には、編集者の個性が強く反映されるものとなります。ゆえに、ブログの神髄は運営者(=編集者)オリエンテッドであり、それでこそ雑誌本来がもともと備えていた粗野な力を取り込み、さらに進化し続けるのではないでしょうか。
……これはわたしの持論ですが、「雑誌の本質はその形に非ず」なのです。本質は、「コミュニティを生み出す力」なのだと考えています。コミュニティを生成するには、ライブなリンクとコンテンツの再利用を促すことです。パッケージング・メディアは、芸術作品のように「閉じていて」、それ自体が完結しています。それゆえ鑑賞の対象にはなりますし、編者のプロ意識は高いのですが、ウェブメディアはフローによって成立しているので、そこからアクションを起こすことに繋げなければ意味がありません。
そうなると、国民全員が知っておいたほうがいいニュースを集約するメディアに加え、専門性、もしくは地域性が高いニュースを提供する新聞社といった二つの流れに分離するかもしれません。そもそも、なぜ新聞紙を丸ごと読まなければならないのか、という疑問は、デジタルになって顕在化してきました。それは、興味ある記事だけのバラ買い(買わずともタダで読めてしまいますが)でもいいのではないか、ということです。ノンパッケージが当たり前のネット上で、パッケージした新聞を売っていこうというビジネスを貫くには何をしたらいいのでしょうか。
あらたにす掲載の記事から。
すでに過去エントリしたブログポスト(「佐川明美さんの『3つのニュース記事の違いは何でしょう?』に強く共感」)との関連で取り上げる。
同メディアの「新聞案内人」のひとり、水木楊氏(作家、元日本経済新聞論説主幹)のオピニオンである。
新聞案案人の中心主題は、新聞をいかに魅力的にするか、ということのようだ。
水木氏は、署名記事を増やすと、三つのメリットがあるという。
世界中で、メディアの電子化が進んでいます。それは、情報を二極分化させていくに違いない。匿名情報と署名情報の二つです。
後者は、ひょっとしたら、会社の枠を越えていくかもしれない。メディアは百貨店の名店街のようになり、特色あるジャーナリストたちがあちこちの店(紙面)で、それぞれ店に合った商品(記事)を載せて腕を競うようになる。
そうなったら、どんなに楽しいだろうかと想像するのは、夢物語に過ぎるでしょうか。
この結語にも、基本的に賛成をする。記事は署名性というラベルが付くことで、その専門性を説明する。
たぶん、それだけではない。メディアからコンテンツへとアトム化が進むオンライン・メディアでは、コンテンツ(記事)一つひとつの方向性や品質、視点などを証明(説明)するのは、少なくともメディア企業という発行体のブランドではなくなるだろうと考える。
だとすると、「メディア企業」って、一体なにをするものなのか? それが究極の命題になる。
見てのとおり、ブログmediologic/weblogのエントリから。
けだし名言だと思う。以下に改めて引用する。
ターゲティングというものが重要視されるのも、「どういった人に届けられるのか?」が大事だから。なので「ターゲティング」という広告の手法という か、メディアの技術というか、そのものがすなわち本質的であるのではなくって、「どういった人に届けられるのか?」を“売る”ことができるのか、が本質的 に大事なんだろう。「枠」を“売る”ではなくてね。いいかえれば「枠」であっても「どういった人に届けられるか?」を明確に言えて、かつそれが広告主の ニーズとあうかどうか、っていうこと。
メディア企業(私が経営しているような企業のことだ)は、パッケージとしての「Media」を売りたがる。
しかし、私が違う考えを持っている。
メディア事業は、読者(ここで言うAudience)とマーケターとの仲立ちすることに大きな価値を有する。
重要なのは、Audienceの期待値と、マーケターの期待値を高度につなぐこと。
細かいことは省いて言えば、確かに「Media BusinessからAudience Business」なのだ。
アルビン・トフラー『「生産消費者」の時代』メモ
トフラー 工業の時代、つまり「第二の波」の社会でわかったのは、規模が大きければ有利であるということでした。これは社会のマス化でした。工業では、生産対象となる製品を変えることが難しく、コストがかかります。……逆に言えば、何も変えずに大量につくることで、コストが削減できます。その結果、スケールが大きければ大きいほど経済的には有利になる「規模の経済」という概念が生まれたのです。
しかし現在では、それは必ずしも通用しなくなったと思います。知識に基く経済、つまり「第三の波」に向かうにしたがって、スケールの大きさは必ずしも有利ではなくなるということです。
※「マス化」 トフラーはしばしば「マス化」という言葉を使う。大量で均一なものに変化するという意味で、工業社会では労働者が大量に生まれて農村から都市に流入し、都市化が進む。そこでは大量生産と大量消費が対になった経済活動が行われ、またマスメディアがその活動を支える。
トフラー 『富の未来』では、時間に対する態度が変わりつつあることを書きました。これは加速というだけではなく、1日24時間7日のフルタイムの態勢にどんどん進んでいるのです。
「第二の波」の時代には「マスの時間」がありました。工場のラインがあったので、みんな同じ時間に起きて、同じ時間に出勤し仕事が始まるのも終わるのもベルが鳴って、時間にきちんと合わせてみんなが同時に行動するシステムだったのです。
トフラー わたしたちの社会の基盤をなしているのは、階層的で縦割りの官僚制度です。人びとはみな、所属する立場にとらわれています。情報はすべて上から下へ、命令によって伝達されます。「第二の波」の工業時代にこの官僚的な組織づくりは企業や社会の隅々にまで浸透しました。
しかし、今日では非効率的です。変化に素早く対応できないからです。ビジネスに成功するためには、上からの情報だけでなく、下からのさまざまな情報を入手する必要があります。問題解決のために臨機応変にプロジェクトチームを結成すべきです。今や、変化のスピードはきわめて速く、問題自体も常に変化しています。
トフラー 非常に多くの新しいサービスが今、必要になってきています。日本の社会でもそれが必要であるにもかかわらず、なかなか進んでいません。しかし、わたしにはそうしたサービスの分野が「第三の波」につながるひとつのパターンのように思われます。日本だけではなく、われわれみんながサービスの分野を過小評価しています。この変化がいかに根の深いものであるか。ただそれをちゃんと見ようとしないのです。
トフラー 生産消費者とは、個人が生産と消費の両面をもち合わせていることを意味します。いわば生産と消費の結合です。この言葉は、わたしが『第三の波』のなかで初めて考案しました。……
世界中で、経済の発展につれて人びとは金銭システムのなかに入っていくと直線的に予測しますが、そうではありません。ほかの人にやってもらってお金を払うのではなく、金銭システムから外れて、自分たちで自分のものをつくるという非金銭システムが生まれつつあるのです。
経済の発展は、それに対するツールを提供することになりました。その最たる例がたとえば写真です。わたしが子どものころは、写真を撮りたいときはフィルムを薬局などで買っていました。そして写真を撮り終えてまたフィルムを薬局にもっていくと、薬局ではそれをフィルム会社に送り、1週間後に現像したものが戻ってきます。それに対してお金を払って、現像した写真を見ていたわけです。ところが今は、デジタルカメラの登場で、撮影からプリントまで、自分で扱えるようになりました。テクノロジーが人びとに自分の富をつくる力を与えたことになります。……
わたしは、血圧測定のために病院に行って、医師にその代金を支払う必要がなくなりました。血圧計を買えば、自分で測れるからです。つまり、これまで誰かに支払っていた仕事を自分でするようになったのです。こういうことがいろいろな方面で増えているのです。……
テクノロジーの進化によって、わたしたちは新たな富を自ら生み出す力を手にしました。リナックスがよい例です。フィンランドの若いプログラマーが、既存のコンピュータのOSに不満をもち、自分ならもっとよいプログラムを書くことができると考えました。まるで趣味に興じるように、無償の労働を始めたのです。
ITmedia Newsの記事より。
私の記憶では、驚くほど長く、オーナー経営体制の延長で収支脆弱な同社を公開会社として維持してきた。
このような経営「体制」の維持は、基本的に同社の製品の寡占的強み、もしくは同社の当市場における圧倒的な知名度などが(潜在的な株主価値として)なくては成り立たない。
今回の資本提携の背景には、その「圧倒的知名度」と業績の実態に乖離が進行したことと受け取れる。
が、時価総額100億円は、まだまだ同社の「圧倒的知名度」や強みが高く評価された証左でもある。
そうでなければ、経営トップに変更がないことの説明がつきにくい。つまり良き理解者を資本パートナーとして得たということになる。キーエンス社が同社を経営ポートフォリオに取り込む意義は、正直よくわからない。
良きにつけ悪しきにつけ、一太郎・ATOKファミリーの市場評価は定まっている。
今回の時価総額における、影の決定要因はxfy製品だ。これが今後も維持されるのかどうか。
キーエンス社がxfyにジャストシステム社の価値を見たのだとすると、今後のテコ入れ策に興味をそそられる。