「直感的にはわかる」「論理的にわからない」「合点がいく」「腑に落ちる」……。
山鳥 重 著『「わかる」とはどういうことか——認識の脳科学』は、私たちが日常的に遭遇する「わかる」をめぐる認識的経験の背後にあるものを解き明かそうとするものです。
私たち自身の「わかる」と感じた際の経験を、少していねいに振り返れば、その経験にはさまざまな局面やレベルがあることに気づきます。
本書で例示され、私自身思わず膝を打つものがありました。
それは、優美なアラビア語で記述されたコーランの教えです。
そもそもアラビア語を知るよしもない私を含めた多く人には、そこに高邁な神の教えが記載されていることは、「わかり」ようもありません。
なんらの予備知識もなければ、それは、なにかの文様には見えるものの、そもそも文字、つまりなんらかの意味を持った記号の塊であると同定することさえ困難かもしれません。
このように、それが何かと同じで、何かとは異なるといった心像を持つことから始まり、自身の持つ記憶に当てはめ、何らかの規則性(ルール)を発見、そして、それを記号という象徴にまで適合する心的活動を繰り広げる中で、人は「わかる」体験を深めていくことを、著者はていねいに説きます。
「わかる」は、事物の認識から始まり抽象的な分類や全体像の把握、時間経験の獲得など、大いなる心的な営為を含んでいます。そしてそれは、個々の私やあなたという個人を越えた人類の経験の中に蓄積されてきたものでもあるのです。
記憶障害、失語症、認知障害などの臨床的な経験も踏まえた著者の論旨は、いたずらに深遠な哲学的視点に傾かず明晰で刺激に溢れたものです。
さて、現代の脳をめぐる科学的研究を取り入れた著者の現時点の結論を、私なりに乱暴に要約してみます。
私たちの「わかる」体験とは、私たちが向かい合う事物や現象に対して、脳が「記憶」と「知識」の網の目に付き合わせて総合する行いから生じるものです。この網の目は、視覚や聴覚、触覚をはじめとしたさまざまな神経ネットワークに支えられたもの。つまりこのネットワークに照らし合わせた結果とその総合が、「わかる」という心的体験として得られるというわけです。
豊富で軽妙なたとえに誘われるようにして、「わかる」をめぐる複雑な心的メカニズムの全体構造をかいま見て私たちは思わず感嘆します。と同時に、「わかる」の二つのパターン、すなわち「答えが自分の頭の中に用意できるタイプ」と「答えが自分の外(自然とか社会とか)にしか存在しないタイプ」にまで整理が及んだとき、実は本書を通じて著者が伝えたかった核心が、はじめて私たちに「わかる」ことにもなります。
新書判200ページ強ながら、ずっしりとした読後感を与える傑作です。