著者はこの連続エッセイで、社会(意識)と消費(意識)の双方にわたる広大な領域に果敢な発言を繰り広げます。本書もその流れに位置づけられるもの。経 済・政治・消費(風俗)・スポーツと多様な分野で、恐れず発言を持続する“アクティビスト”ぶりにいっそう磨きがかかっていると言えます。
たとえば、著者はこんなふうに書きます。
たとえばバグダッドがどんな状況なのか、スンニトライアングルはどうなっているのか、サドル師の影響力はどのくらい強いのか、そういったことがわからない。…中略…イラクの現状がわからないことが異様なのではなく、わかっていないと率直に言わない大手既成メディアの報道姿勢が異様なのだ。日本のメディアはどうして「わからない」ということを言わないのだろうか。
今年7月初旬、イスラエルがヒズボラ掃討のためにレバノン南部に侵入した日、NHKの夜7時のニュースのトップは「梅雨明け」だった。…中略…問題は、そのような「国内標準」が持つリスクだ。国内標準に慣れている国民は世界の趨勢に疎くなりがちなので、政府は外交において特別なコストを払わなければいけない場合がある。
日本は格差をどうするのだろうか。たとえば社会保障をパートも正規社員も同等に与えるという改革を実行したとたんに、経営と労働者の利害がシリアスに対立する。正規社員以外の社会保障の充実が長期的に考えると経営側にも利益となる、みたいなことはどうでもいい。現状では、社会の構成員全体に利益をもたらす改革などないということだ。効率を優先して社会格差を受け入れるのか、効率を犠牲にして社会格差をなるべく少なくするという方向に進むのか、実はどちらかしかないのだが、そんことは絶対に語られることはない。
教育再生会議の委員たちや、文部科学省の役人や、メディアや、教師や、大人たちは、子どもたちに対し、どうあって欲しいと思っているのだろうか。どんな子どもが望ましいと考えているのだろうか。たぶん理想の子どものモデルを示すことはもう無理なのだ。「どうやって生きていくか」は規範ではなく戦略の問題だ。戦略の議論がなく規範だけが求められることと、自殺の蔓延は無関係ではないとわたしは考えている。
いわゆる“ダブルスタンダード”のトリックで世界との直面から免れようとする日本。「どう生きるのか」と子どもたちに伝えない日本。「格差」という多様性を認めることができない日本。
著者が、実は私たちの触れたがらない痛点を意図して刺激し続けていると気づけば、「理解が違う」と喉もとまでせり上がった言葉を、飲み込むことになります。
「自殺、格差、老後の不安……どうやって生きのびるか?」と著者は問いかけ、果敢にも自ら考えを巡らせます。そこで生まれる思考は「毒を含んだ正論」とも言うべきもの。
読者は思わず「すぐそこにある希望」と「すぐそこにある絶望」の両方に思いを巡らせることになります。
心地よいコトバをではなく、自らに重い社会意識を呼び込むために読むべき本と思います。