ビデオジャーナリストの神田敏晶氏が、MediaSaborにおけるポストで、メディアと広告ビジネスをめぐり印象深い指摘をしている。
上記のブログポストに触発されて、「広告」と「コンテンツ」の境界が溶け始めていることについて述べてみたい。
2009年のメディア&広告ビジネス予測 | 専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】 via kwout
神田氏は同稿でこう述べている。
ジャパネットたかたは、すでにテレビの広告枠の購入スタイルを変えた。佐世保の自社スタジオから地上波テレビ局に向けて番組を配信しているのだ。テレビ局はジャパネットたかたの前では、単なる電波のレンタル屋さんにすぎないのである。その間にジャパネットたかたは、ハイビジョンシステムを備え、小さな地方局よりも豪華な設備となった。ジャパネットに必要なのは、テレビではなく、視聴者ネットワークだけなのである。そのうち、携帯やネットに視聴ネットワークがシフトした時、ジャパネットは自前でそれを持ってしまうことだろう。
また、制作スタンスは、物を売っているようではあるが、実はライフスタイルを売っている点がメーカー発想とは全く違う。
高田社長のカラオケマイクで、歌の二番まで気持ちよく歌い、マイクをはなさないのに、あきれかえりながらも、思わず気持ちよさを共有してしまうことがよくある。普通の地上波なら、放送事故として、苦情が多量に寄せられるシーンだ。しかし、視聴者もこの番組(広告?)の個性を認めているからそんなことがない。
ジャパネットがセレクトした製品をジャパネットでサポートもおこなうという徹底ぶりだ。分割払いも、年金暮らしの人が買える料率に設定されている。
そのうち、ジャパネットたかたが情報バラエティ化したり、ホームドラマ化、歌番組化するとますますテレビ局の立場は見えにくくなってくる。
クライアントにとっては、テレビというフレームワークの中で広告を考えるのではなく、人々に自社製品を伝えるためにどうするのかが一番重要なのだ。広告という枠の提供ではなく、クライアントの製品やサービスと、ユーザーのライフスタイルとのマッチングを考えるのが広告業界の役割であり、メディア業界の創造性だ。
私は、これを「広告」と「コンテンツ」の境界が明示しにくくなっている事態と、受け止める。
神田氏が挙げるジャパネットたかたのケースは、従来の概念で言えば、広告そのものがコンテンツとなり、かつ、それが好評を得ている事態だ。
私が指摘するまでもなく、深夜もしくはCS放送などでは、このような、モノを売るための広告枠が、視聴者の関心と歓心を呼ぶコンテンツ(=番組)と化し自律している。
この場合、放送主体のテレビ局(放送局)の役割は、まさにメディア=情報媒体であり、コンテンツは別の提供者=広告主から発せられている。
制作能力の実体が、とっくに外部へと移転してしまっている現在、テレビ局はすでに「電波のレンタル屋さん」なのだとも言える。
ここでよく展開されるような、「放送局は、そしてメディアは、それで良いのか!?」という、メディア業界人にのみ有効な、公共性を仮装する権益論議には陥るまい。
従来は明示的であった「コンテンツ」と「広告」の境界が、どうしてこのように混沌としてきたのか?
私のつたない考えはこうだ。
視聴者(消費者)は、場合によっては、自身でも明瞭に気づいていないかもしれない消費意欲を、直線的に購買という行為に出てそれを実現するわけではない。
- 商品の提供者による商品そのものについてのストレートなセールストーク(カタログ情報)
- 事情に通じた“プロ”の解説、お勧め度合い(第三者の解説情報)
- 実際にこれを購入、経験済みの同じ消費者らの声(消費者による、フィードバック情報)
視聴者(消費者)は、これらの要素情報を旋回しつつ、自らの消費意欲と金銭感覚とを比較衡量しているのである。
このモデルは、現代の消費に関連して生じる行動に共通のものと認識すべきである。
さて、これら3要素について、それぞれの視聴者(消費者)なりの期待値が存在すると見る。
現在目の前にしている情報(コンテンツ)は、その期待値を満たすのか否か……というように。
これが現代の視聴者(消費者)の、基軸的な視点である。
神田氏のブログポストに戻ろう。
私たちが目にする従来メディアにおいて顕著なのは、1.のカタログ情報のリッチ化(高度化)であり、2.の第三者解説情報の貧弱化という現象である。
視聴者(消費者)にとり、1.については期待値を上回り、2.については期待値を下回る現象である。
ここから先が、自分が携わるメディア稼業において生じている慄然たる現象である。
視聴者(消費者)にとり、このような期待値上の変化は、自分が目にしている(あるいは、手にしている)メディアの役割を、1.の満足が“主”、2.の満足は“従”とするということである。
従来、最も価値があり、最も重い情報であった2.は沈む一方である。
他方、神田氏が取り上げたジャパネットたかたのケースのように、1.の情報でありながら、高田社長の存在が2.の情報を、さらには擬似的に3.の情報も併せて提供するという効果を引き出しているのだ。
従来メディアの果たしていた役割が、どうしてこのように軽んじられることになっていったか、ここでは問うまい。
1.についての手法は進化し、インターネットの出現により、3.の視点が台頭した。
その中で、2.が進化を遂げないどころか、品質を落としていることを、だれもが否定できないだろう。