ソフトブレーン発行「宋 文洲のメルマガ」116号掲載(バックナンバーは、こちら)の記事から。
筆者は、一橋大学米倉誠一郎教授。
目についた箇所を、以下に引用しよう。
「全治3~5年」、あり得ない!
一橋大学イノベーション研究センター長・教授
米倉誠一郎今回の経済不況にあたって、「全治3~5年」などという人がいる。しかし、この経済はもう元に戻らないし、戻してもいけないと思う。再び、無から大金を生むような金融商品に血眼になり、デジカメや携帯を何台も持ち歩き、まだまだ使える自動車を2~4年で乗り換え、多額の設備投資を続けた液晶テレビを原価割れで売っていく。そんな社会にもう一度戻るというのだろうか?
今われわれに必要なのは、そんな後ろ向きの発想ではなく、「新しい資本主義を創る」という気概だと思う。その意味で、明治維新、戦後に続く「現在」という大チャンスに遭遇していることを忘れてはならない。と、大上段に構えても、「新しい資本主義」という答えはそうは簡単に出ては来ない。この連載で、新しい資本主義構築の手がかりを探ることが少しでもできればいいなと思っている。
「この経済はもう元に戻らないし、戻してもいけないと思う」との箇所に、私の心情は共鳴をする。
確かにこの数年間、私たちはヘンな気分に浸っていた気がする。
ヘンな気分は、「金融工学」とかいう怪しげな領域周辺に立ちのぼり、異臭を放っていた。
金融はとても重要な、人間の英知を象徴する分野だが、それ以外の領域にも大切な世界は数多くある。
だが、若く優秀な人々は、金融周辺分野に職を求めたがっていた。
若くして年収ン千万円などとまことしやかに言われることも多かったものだ。
と言う訳なので、この「新しい資本主義を創るという気概」には、私も興味をそそられる。持てるものならぜひ私も持ちたいと思う。
ただし、その実体はというと、ここでは示されていない。
言い換えれば、ここにもまた、不可思議な香りが立ちのぼっているのではないかと感じる。
「無から大金を生む」ということがあるとすれば、それはいつの時代であっても“ペテン”である。
けれど、「新しい資本主義」を生むという、実体を明かさないかけ声もまた、蜃気楼を見させられる気分とは言えないか?
「デジカメや携帯を何台も持ち歩き、まだまだ使える自動車を2~4年で乗り換え」が、果たして後戻りしてはいけない社会なのだろうか? 本当にそうか? 私には、今ひとつ理解できない。
つまらないツッコミかもしれないが、「では、何年デジカメを使えば良いのか?」「何年自動車を乗り回せば、許されるのか?」と訊きたくもなる。
実際、私はケータイを数年間使い続けているが、それは、なにか主義主張があってそうしているわけではない。
VHSビデオデッキは10年以上は働き続けている。
また、わが家ではこの20年間で、自家用車として軽自動車を2台買い換えてきたのだが、それは教授の基準に照らすと褒められることか? あるいは、批判されることだろうか?
冗談はさておき、要するに私は私なのである。私の消費生活は、私の自由に帰属する。
もちろん、私の消費生活は無限に自由ではない。そのためには収入が十分でないという側面もあるだろう。したがって、私の自由選択の一部に帰属する、と言うべきかもしれないが。
「資本主義」は、この種の選択を、自らの意思によって行えること、もしくは希求することを背景にしてきたと思う。そうでなければ、多様であっておかしくない人類の歴史に、一定の足跡を残すことはなかっただろう。
放恣に見えるかもしれない人の自由、すなわち(消費)選択の自由を認めない社会は、結果的に資本主義を否定するだろう。
当人以外が、「かく生きるべし」を押し付けてくる社会には、私はいたくない。これが実感だ。
人は、まだ本源的な自由の行使を、消費生活における恣意的自由という側面でしか、行使し得ないでいる。
しかも、多くの人々にとって、それさえもまだ十分に体験し得ないのが現状である。
これは、人間の歴史における未完了な面を表わしている気がする。
自分が自由でありたいように、他人の自由を積極的に肯定する。こんな視点が当たり前である社会が必要だと思う。
今回の経済変動が、むしろそれを遠ざけるような契機になるのは、それこそ「あり得ない!」。