古くからの知人で高名な、ある評論家氏からtwitter経由で苦言をいただいた。
それに先立つ詳細を十分にたどっていないが、私の会社が取っているコスト削減の動きなどに絡んで、執筆依頼やその支払いなどで失礼があったのだろう。併せて、営利を追求するメディア運営の姿勢についての懸念も表明されていた。
評論家氏は紳士なので、ためらった後の“アドバイス”のかたちを取っていたが、内心には大いに怒りがあったのだろう。
失礼についてはお詫びしなければならないし、配慮のうえでアドバイスいただいことにはありがたく感謝もしなければならない。
ちなみに、古くからのつきあいのある評論家/執筆者の方から、苦言を呈されたのはこれが初めてではない。
その都度、失礼の段を詫びるとともに、私の考えを説明してきた。
さて、評論家氏から「意見」を求められたので、私なりに言い得ることを、やはりtwitterで返した。
以下は、そこで述べたことの再録である。(個人の立場とは言え)メディア稼業の現状認識を込めたつもりである。
下記再録の後に、twitter上では書けなかった点を少々補足したいと思う。
※ 再録では固有名等を伏せたが、もともと公開の場でやりとりしたこと。興味あればtwitterのTLを追っていただければ、発言者も同定できる。
論の出発点が私にはわかっていないですが、言われていることはわかる気がします。
出版社と同様に、ライター各位も甚大な影響を被っているのは明白ですから。問題は、“リーマンショックだからさあ”という局所的な現象でなく、事は構造的に進展していることですね。
商業コンテンツ=価値大、という依拠すべき根本図式が時間をかけて崩壊しているので。で、自分たちが仕掛けてきたのは、プリント(メディア)に対して品質は低くなく、オンラインならではの付加価値とフリーであることを武器にしたゲリラ戦。
まあこんなところで居場所を作りだしたと。
ただネットエコノミーは空前絶後の進展を続けていて、だれも“この辺りがコスト・品質・ボリュームでの均衡点”と言えないレースに入っているのですね。
“均衡点”が意識できる間は、「編集者発注・ライター受注」という従来型受給モデルで、ライター各位もぼちぼちWebメディアへとシフトしてもらえました。(2000年当時は、有名ライターさんにお願いしようとしても、けんもほろろの扱いでしたが)
さて、現在、そしてこれからですね。限界コストがゼロに見えてしまう状況下で、プロのライターが食い、職業的なメディア人もまた食っていけるのかどうか。
Web専業メディアを始めて10年経って、痛感している変化があります。
書いたように、フリーで、かつ、付加価値のついたコンテンツを世に出した反応は、
まず、1) 何これ? うさんくさい → 2)ありがたい、雑誌買わなくていい → 3)あって当たり前じゃん、です。
この4〜5年の状況は、3)の感じですかね。
いまでは(コンテンツは)コモディティですから、格別の感謝を集めないわけです。
むしろそれをフィルターしたりクリップしたりする機能やヒトに感謝が集まりやすい時代。
マーケティングもポチっとする場所が尊ばれる。
で、この環境に対して、“メディアは尊敬されて当たり前”“影響力があって当たり前”と自己欺瞞してきた“メディア関係者”から順に逆ギレしているのでしょう。
メディアやコンテンツを守れ、権利を強化せよと。
とりとめがなくなっちゃってますが、私は、“メディアってこういうもんでしょ”と自己欺瞞を振り回すような策は取らないですね。「ユニクロが日本をダメにした」的言説はこの業界にも起きています。自分たちの役割(期待)変化も意識しながらカネを使わねばなと。
頭に浮かぶのはこのぐらいです。ちょっと補足します。「自己欺瞞」と書いたのはワケがあって、この業界は特別に各人が自ら信じ込みたがる傾向が強いのです。「編集人たるもの」「メディアの社会的役割とは」とか。
ステークホルダーがみな、ここで共謀しようとします。
舌足らずだが、メディア稼業の現況について、言いたいことは述べたと思っている。
ただ、コトバがあいまいだった点について、少しだけ補足してみたい。
メディア稼業を稼業たらしめている原価部分は、残念ながら引き続きマイナスのスパイラルを描いている。
ただし、長期的にこれがゼロになる、あるいは、ゼロになって良いとは思っていない。
見かけ上、原価ゼロの“メディア”(的)事業が存在感を増しているのも事実だが、それらは別の方面にコストを張っているのである。
私自身の問題意識を構成しているのは、以下のようなことである。
一つひとつのコンテンツ(記事といってもいい)をめぐる限界効用は、残念ながら低減を続けている。
わかりやすく言うと、
- ひとつのコンテンツ追加がもたらす収益の増分が、低減している
- ひとつのコンテンツにかける原価がもたらす収益の増分が、低減している
- 逆に、ひとつのコンテンツの削減がもたらす収益のマイナス差分が、低減、もしくは停滞している
- 同じく、ひとつのコンテンツにかかる原価削減がもたらす収益のマイナス差分が、低減、もしくは停滞している
こんなことが生じるのも、インターネット上で得られるコンテンツが見かけ上、無制限であること、あるいは、自分たち自身が湯水のようにコンテンツを生成していることもあって、“コンテンツ=希少性”という価値観を、読者や顧客に対して貫けなくなっていることに起因しているのではないか。
こうなっては、1) 希少性の薄いコンテンツから撤退していく、あるいは、2) 同じコストをかけるなら、限界効用が高い分野に注目する、というのが論理的な出口となるだろう。
1) については、そのようなコンテンツを有する執筆者の方々に需要は引き続き集まる。
2) については、たとえば、技術力などに資金を投入するというようなことになる。こちらは、従来の「コンテンツ最大の原価構成部分は、従事者の労賃である」という図式を変えてしまう。
私自身は、1)および2)のいずれについても、歩むべき道すじは見えてきたと感じている。
残念なことに、論理的に見て変化は免れそうにない。
出版社のようなメディア稼業の根幹がかつて揺らいだように、執筆稼業も同様の波に洗われているのである。
最後に、「では執筆者、ライターはどうなってもいいのか」と叱られそうだが、まったくそうではないと思う。
上記したように、(少ないとは言え)原価を投下できることは、依然として商業メディアの強みを構成している側面である。
ただし、論理的に言って、それは1)の方向に向けて収れんすることになるだろう。
しかし、執筆者、ライター諸氏には苦しみのみが残るかと言えば、そうではない。
コンテンツを有するヒトに対して、インターネットは光明ももたらす。
逆説的だが、前に走り書きしたように、今こそ“供給者の論理”を貫ける状況が見えてもきている。
メディアを生業とする者としては、依然として、コンテンツを持つ人々との関わりを通じて自らの存在価値を世に問うていきたい。
しかし、それは過去のような司祭のごとき振る舞いとしてではない。