人間は折に触れて、読み返したくなるような書物をもつ。
人生の節目で、そのような種類の書物に触れるとき、新たな発見をした、と思うものだ。
あるいは、「発見をした」というのは、みごとな欺瞞であって、人間はすでにそこに書かれてあることから逃れ得ないのかも知れない。
「新たな発見」とは、であるとするならば、「再び、三度び、人生を決意し直すこと」の言い換えなのかもしれない。たぶん、そうなのだろう。
私にとり、ヘーゲルの『哲学入門』(岩波文庫版 武市健人訳)は、そのような二度、三度と自身の覚醒を問う種類の書物のようだ。
1980年の最終奥付をもつ黄ばんだ本に目を通すのは、今回が3度目。
そのつど印象に残る箇所はさまざまだが、繰り返しどうしても目についてしまうのは以下の箇所だ。
けれども人間は思惟するものだから、衝動がたとえ即自的には〔それ自身、直接的には〕必然性をもって人間を支配しているとしても、その衝動を反省することができる。
反省は、一般的に直接的なものの省略を意味する。
光の反射とは、放っておくと一直線に進行する光線がこの方向を反轉することである。——精神は反省をもつ。精神は直接的なものに拘束されず、直接的なものを越えて他のものに向って行くことができる。例えば、或る出来事からその結果の表象〔観念〕に、或いはそれと類似の出来事の表象に、或いはまたその原因の表象にと。すなわち、精神は直接的なものに向って行きながら、同時にそれを自分から遠ざけ、自分の中に反省する。つまり精神は自分の中に沈着するのである。(適当に改行を補った)
10年ぶりに、ヘーゲルのこの記述と向き合うと、自らの精神の歩みについて、改めて強い示唆を感じ取るのである。