「考える人」(新潮社)が2010年春号で「はじめて読む聖書」という特集を組んだ。
そのひとつが、吉本隆明へのインタビュー「マタイ伝を読んだ頃」だ。少しだけ印象を述べておきたい。
自分が読んでいて、いちばん衝撃的というか、内容としてすごいことが書いてあると思ったのは、マタイ伝でした。
……
こういうところがありました。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」
改宗者を得ようとしても、なんだかんだと説得して、お前たちは信者を得たと思っているかもしれないけど、そうじゃない。本当は地獄の子を得たんだ、お前たちよりもひどい地獄の子を得たに過ぎないんだと。……もうこういうくだりを読んでいると、ワーッと叫びたいような気持ちになりました。
こういう圧倒的な言葉が、マタイ伝にはいたるところに出てくるわけです。ペシャンコになった自分に音を立ててぶつかってくるような言葉が、つぎつぎに現れる。衝撃を受けながら繰り返し読んでいると、イエス・キリストという人間が、千年、二千年にひとり、現れるか現れないかといううらいの思想家だということを、聖書ははっきりと示していると思いました。
ここで「ペシャンコになった自分」とは、(上記の引用では省略したが)吉本がくぐった終戦、敗戦体験に由来するものであることがインタビューでは述べられている。
この「ペシャンコ」、「圧倒」、「衝撃」といった体験の強度を、浅く解説するのはしのびない。
だが、その強烈な強度をもった体験によって引き起こされた精神の劇においてこそ、「音を立ててぶつかってくるような言葉」の体験もまたそこに生じるのだということだけ、述べておこう。
精神は、確かに、体験の強度に向かって開かれている。そのような瞬間があるものなのだ。
吉本はマタイ伝を論じた「マチウ書試論」で、このように述べている。
(注釈=マタイ伝の)作者は、ヘブライ聖書のなかの、おまえは神の名において虚偽をかたるからという理由で、その骨肉の父母が、予言者をさし殺すというところから、親類が、ジュジュ(注釈=イエス)を気狂いだといって捕えにくる物語をつくり、わたしの兄弟には疎遠のひととなり、母のこには未知のひととなるという言葉から、わたしの母とは誰かわたしの兄弟とは誰か、というジュジュの言葉を思いついたことになる。……すなわち、秩序からの重圧、父子や肉親の裏切り、そして過酷な思想的抗争、のなかで、原始キリスト教が身にそなえた憎悪感と、うちひしがれた心理とが、わが母とは誰か、わが兄弟とは誰か、というような言葉を、思想的にうらづけたのである。
新約書の、恐ろしく生々しい「音を立ててぶつかってくるような」記述を受けとめながら、人間や社会、そして肉親との愛や相剋について、吉本は独り孤独に考えを巡らせていたのだった。